OutsideというWebにSNOWBOUNDという記事があり、引き込まれて読んでしまった。これは翻訳すべきだと感じた。やや難しい英語なので、ほとんどの日本人には難しいからだ。ベテラン・スルー・ハイカーが雪に閉じ込められたという話だが、いくつか教訓があるだろう。
1.SPOT(衛星通信装置)の費用(月数ドルだが)をけちって食料やマリファナに回した。
2.山に向かうタイミングが遅かった。大きな冬の嵐が来るという天気予報を無視した。
3.彼は紙の地図を持ってなかった。
4.装備がウルトラライトでぎりぎりだった。(足から凍傷になっている)
2.山に向かうタイミングが遅かった。大きな冬の嵐が来るという天気予報を無視した。
3.彼は紙の地図を持ってなかった。
4.装備がウルトラライトでぎりぎりだった。(足から凍傷になっている)
怖い話なので、元気な時にゆっくりと読んでください。
I have read the article "SNOWBOUND" in Outside Magazine. I feel I should translate this into Japanese because its English is a little difficult for most of the Japanese. It is a story that an experienced thru-hiker was confined in the snow. We should learn something from here.
1. He had SPOT but he stopped to use it. The subscription fee might be a few dollars, but he used this money for weed and food.
2. The timing of entering mountains is too late, and he hiked against the weather forecast that the big storm would come.
3. He has no paper map.
4. The equipment is too ultralight. ( the frostbite began at his feet )
This is a terrible story. Stay calm. Read slowly. Good Luck.
ダグ・ロビンソン S N O W B O U N D ( 雪に囚われて )
2015年11月、ベテランのスルー・ハイカー、スティーブン・オッター・オルシャンスキー(Stephen“Otter” Olshansky)はニューメキシコ州北部のContinental Divide Trailにいた。その時、冬の嵐が来て、数フィートの雪が積もった。彼は動けなくなり、食料がなくなり、キャンプ場のトイレをなんとか探し、中に閉じこもり、助けが来るのを祈った。
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はじけるような美しい2015年の秋、、スティーブン・オルシャンスキーは、コロラドの山岳地帯を南に向かってハイキングしていたので、冬の到来が恐ろしいことを知っていた。秋の嵐が来て、雪が降った。雪は彼を止めるほどではなかったが、彼の歩みは遅くなった。彼はコンチネンタルディバイド・トレイルの最高峰をほぼ通過していた。コロラド州南部のサンファン山脈で、「9,000フィート以上では脹ら脛から膝まで雪に潜っている」と彼はブログに書いた。
オルシャンスキーはベテランのスルー・ハイカーで、トレイル名はオッター(Otter, カワウソ)。彼は雪を知っていた。彼はしばしばサウスパウンダー(sobo)で、セクション・ハイカーではなく、雪が完全に溶ける前の春に長距離トレイルの北端から始めてスルー・ハイクを行っていた。「彼はマスターであり、エキスパートのトップでした」と、オッターのスルー・ハイキング・フレンドのアート・ローは言う。しかし、オッターが前年に経験したのは春の雪で、固くしまっていたので、その上を歩くことができた。
10月下旬までに、秋は急速に冬に向かっいた。しかしオッターは慌てなかった。彼は友人と一緒に一度に何日も休んだ。最初、州の南西の隅のマンコスという町で、彼はポテトチップスを喉に詰まるほど食べ、ダスティン・パートリッジ(トレイル名:ドーバーのプロ)と一緒にワールドシリーズを見た。その後、彼は80マイル東のパゴサス・プリングスに移動し、ナミエ・バシレ(トレイル名:LetItBe)一緒に過ごした。ナミエは、AT(2,190マイル)、PCT(2,650マイル)、CDT(3,100マイル)をスルー・ハイクしたトリプル・クラウナーであった。
オッターは再びCDTを歩く前に、私に電話した。私は彼と友達でした。私たちは2000年、シエラネバダの晩秋の深雪をナビゲートするのを手伝ったときに会った。それ以来、時折連絡を取り合っていた。オッターは電話で寒い天候を予想していると言い、チタン製のウッドストーブとテントを送ってくれないかと言った。ストーブの重さは1.6ポンドで、ストーブパイプを広げると平らになった。私はそれらを一緒に送った。彼は、ニューメキシコ州チャマで、トレイル・エンジェルのベンとジル・ウィッティングの雪に覆われた裏庭でキャンプしながら新しい冬の道具をテストした。彼は夜の間、ウィッティングの南のルートの地図を調べ、大きな冬の嵐が来るという天気予報を見ていた。 「私たちが話したことはほぼすべてです」とベン・ウィッティングは私に言った。
彼がこれから向かう土地は、ニューメキシコで、縁辺岩地帯であった。彼が数百マイルをハイキングする千年前に、赤い砂岩のプエブロの人たちは、遠く離れた崖の住居を繋いでいた。CDTのその部分は十分に高く、10,022フィートのクンブレス・パスから始まり、所々、11,000フィート以上の高さがある。この地域は一見平坦に見えるが、所々、木々が密生したり、何も生えていなかったり、突然、崖に落ち込む前に緩やかだったりする。しかし、オッターは、その地形を経験していたので、天候にかかわらず、歩きたかった。一度、ハイキングした後は、彼は必要な契約を多くかかえていたので、ゴルフのプロとして働いた。彼はベン・ウィッティングの地図の提供を断った。
11月14日、ウィッティングは車でオッターをクンブレス・パスまで送った。気温10度のよく晴れた日だった。彼はオッターに75マイル南のゴースト・ラ-ンチに着いたときに電話するように言った。オッターは、2週間分の大量の食料を担いでいた。グローサリー・ストアの食料で、フリーズドライ食品は無かった。オッターが雪に覆われた小道から消えると、ウィッティングの若い息子のウェルズは恥ずかしそうに手を振った。2週間後、ウィッティングはまだ電話を待っていた。
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スティーブン・オルシャンスキーは1956年に生まれ、ニューヨークのニューロシェルで育った。彼のアウトドアへの愛は彼の家の周りの森から始まった。彼の友人の家への道はその長い森だった。そこではオッター(カワウソ)やビーバーが繁殖していた。家族が数マイル離れたところに引っ越した時、彼はその小さな荒野から切り離された。「同じ町、同じ小学校、すべては同じ。ただ、森はなかった」と兄のニールは言う。その結果、オッターの何かが変化した。彼は内向的になり、森で見つけた慰めをさらに熱心に探し求めているようだった。
彼は7歳の時にニューハンプシャーのサマー・キャンプでハイキングを始めた。アパラチアン・トレイルはサマー・キャンプのすぐ傍だった。続く7年間、夏に、彼はそれをどんどん歩いて行った。(後に、彼がアリゾナに訪れた時、ネイティブアメリカンがオッターというトレイル・ネイムを付けたと友人は言う。)
オッターは頭が良かったが、高校ではすぐに退屈してしまった。 (彼は一度、ニューヨークに行って全国チェス選手権に出場し、彼の年齢グループで優勝した。彼の友人は彼がプレーしたことすら知らなかった。)彼はほとんど学校を捨てて、映画を見たり、ゴルフをした。しかし、彼はアメリカ最長のトレイルに引きつけられた。 彼は、20代前半にATの最初のスルー・ハイキングを行い、彼の人生は夏中ずっとハイキングし、その後、冬の間、フロリダでゴルフのプロとして働くことに落ち着いた。2001年、私がフロリダの彼を訪問した時、床の真ん中に立てたテントしかなかった。
オッターは、毎年、トレイルを次々と歩き、小さいながらも成長しつつあるスルー・ハイカーのコミュニティの最も優秀なメンバーの1人になった。私が初めてオッターに会ったのは、パシフィック・クレスト・トレイルの雪の中であった。彼は、2000年の初めてのサウスパウンダーだった。彼は春にカナダ国境を出発した。ハイキングポール(その時には革新的だった)とアイスアックスを持っていた。ノースカスケードは200マイルほど、固い雪で覆われていた。彼は、固い雪で時々スリップしてパニックになったが、歩く速度が落ちただけで、シェラネバダには10月に着いた。
初冬の嵐が来て雪が2フィート降ったので、彼はヨセミテ東部のマンモスに下りた。そこで、彼は私を呼び、ガイドを依頼した。私は何時もはスキーだがスノーシューとロープを持っていった。オットーはスキーができないし、林のなので練習もできなかった。13,15フィートのフォレスター・パスを超えて、PCTのもっとも高い、凍った所を200マイル以上歩いた。
オッターと私は友達になった。私は彼がハイキングのムービーを撮るのを手伝った。テレビがメジャーになる前のことだ。彼は数え切れないほどのトレイル映像を蓄積したが、興味を示したプロデューサーはいなかった。それでも、私たちが話したり、ハイキングしたり、マリファナを補給する、遠くのトレイルヘッドで、彼は何年もの間、その件を持ち出した。
2014年までに、ニューメキシコからモンタナまでロッキー山脈を繋ぐCDTは彼のお気に入りとなった。トレイルはわずか70%しか完成していないため、狩猟用トレイルと林道でいくつかのセクションをつなぐ必要があった。スルー・ハイキングのワイルド・ウェストだった。
オッターは2015年にCDTをハイキングする予定はなかった。その年の3月に、彼はカリフォルニアの海岸をバックパッキングし、オレゴン州から東に向かってアイダホ州に向かった。そこで、彼は州の端を取り巻く推奨トレイルのことを聞いた。彼は、州の南端を歩いてモンタナへ行くこと計画した。それは8月で、私の知る限りでは、ハイカーがメキシコに向かってCDTをスタートするにはもっとも遅かった。
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オッターが11月にカンブレス・パスを出発してカーソン国有林に向かうと、すぐさま、彼は自分が困っていることに気付いた。彼は「私はすぐにひどい衰弱に苦しみ始めた。立ち上がると、気が遠くなった」と、苦難の間ずっと続けていた日記に書いた。彼がウィッティングズに滞在している間にインフルエンザにかかった可能性がある。ベンはそれで3週間働けなかった。しかし、彼が回復した後でも、オッターにはきつかった。「雪は所々腰までの深さだった」と彼は書いた。「私は露出した地面を1つの場所を見つけ、テントを張った。雪が降り始め、火曜日[11月17日]にやんだ時、雪は1フィート以上になった」
トロイ・チェンバーズは、嵐が訪れたとき、カンブレス・アドベンチャー・ツアーの観光客を案内する冬のスノー・モービルの準備をしていた。そこは高速道路17の高い場所、オッターがテントを張った所から遠くなかった。「少なくとも2フィート半の雪があった」と、チェンバースはカウボーイの声で私に言った。「この会社がツアーを行ったのはこれが最も早い。」
オッターのルートは、チャンバーの通常のスノー・モービル・ツアーの範囲を超えていた。高原の地方だった。夏には、無数の小さな尾根に誘惑されるが、しかし、夏は過ぎ去って長い。雪はすでにトレイルを埋めていて、何マイルも歩こうとは思わない。
嵐はすぐに過ぎ去ったが、気温は急落した。最高気温は-7度以下で、雪を溶かしたり固めたりするのに必要なものにさえ近くにはなかった。「私は水曜日に戻ろうとしたが、12マイルのうち1マイルしか戻れなかった。そこでもう一度キャンプサイトにやっとのことで戻った」と彼は書いた。「私は病気で、雪に囚われて、SPOTがなかった」。SPOTは緊急通報装置のことである。
オッターは、電話を取り出し、ビデオで記録した。これは、電話機は、以前は地図を保存したり、ごくまれだが、サービスを提供したときに友人に電話をかけたりしていた。
(オッターの最初のビデオ録画)
このビデオ・クリップでは、彼は悪く見えず、彼の声は思慮深い。「私は大きな問題を抱えている」と彼は言う。「昨日、脱出しようとした」私が彼に送ったテントの端に、森の中に足跡が見える。オッターはダウン・ジャケット、フリース・プルオーバー、長い下着を持っていた。いくつかはむき出しで、すべてウルトラライトだった。スルーハイカーの経験に忠実で、寒い夜のためにマイナス30度対応の寝袋を持っていたが、速く動いている時だけ温かいという衣服だった。オッターは、カスタムメイドのリマー・ブーツではなく、ランニング・シューズを履いていた。リマー・ブーツは暖かいが重いので、コネチカット州の弟の地下室に置いてきた。「股間までの深い雪と高度のため...つま先も暖かく保てなかった」と彼はビデオで言っている。「私は本当にサイコロを振って負けた。...今すぐ、奇跡が必要だ」
6日目は11月19日だった。一番の問題はオッターのつま先が凍傷の第1段階にあったことだ。それは感謝祭に近く、一年で最も日差しが短かった。分水嶺に沿う山々は冬が深くなった。彼はテントに置き去りにされた。それから、「風が強くなり、大きな嵐が来た。まる一週間、吹雪いた。その間、私はスノー・シューを作ろうとし、雪に大きく「助けて」と書いた。そして、誰かが上空を飛ぶと期待した。私は必ず誰かが来ると思ったし、彼らがなぜ来なかったのか、本当に理解できなかった。がっかりした。スノー・モービルも飛行機もなし」
(オッターの2番目のビデオ録画)
オッターは、12月1日まで17日間そこに留まった(バックカントリーでは時間経過がすぐに分からなくなる。オッターの日誌は数日間抜けていた可能性がある)。1フィートずつ雪が積もっていった。チェンバーズはスノー・モービルのツアーで忙しかった。彼はオッターがテントを張った場所から8マイル北まで、誰も連れて行ったことはほとんどないと言った。数人のバックカントリー・スキーヤーがパスの近くでパウダーを滑ったが、冬にその地方の奥深くまで行く人はほとんどいない。
最初の2週間半で救助されなかったので、オッターは「私の人生で最大の決断」という選択に直面した。オプション1:じっとして救助を期待する。オプション2:東か西に向かう。彼の作ったスノーシューは、頑丈な枝に、貧弱な下着から引き裂いた布を打ち付けた物で、おそらく、分水嶺の有名な軽いパウダーでも長くは保たないだろう。オプション3:南の低い地方に行けばおそらく雪が少ないだろう。彼は、電話が死ぬ前に、地図で南へ3マイルの所にラグニタスというキャンプ場を見たことを思い出した。「そこにはトイレがあり、一度寝たことがある」と彼は書いた。
(オッターの最後のビデオ録画)
結局、トイレを避難所にするという見通しで、彼はテントをまとめて南に進んだ。
「あの日、勇気を精一杯出して荷造りした。...200ヤードを歩いたが、腰までの深い雪で、疲れ果てて身をかがめた。17日間過ごした場所を振り返った。...安全だが、棺桶だった...数歩歩いて、身をかがめ、丸一日かかった。私は一歩も先に進めず、雪の中で寝ようとしていた。左を見たところ、トイレを見つけた。...私は震えながら、氷箱の中に潜り込んだ。寝袋に入り、温かい物を飲もうとウッド・ストーブを組み立てた。」
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最初にオッターの居場所が分からないと書いたのはベン・ウィッティングだった。彼は、11月29日に、スルーハイカーのFacebookページのCDT 15にログオンした。「先週かそこら、オッターから何か連絡はなかったか?彼はここ(チャマ)を出発し、11月14日にゴースト・ラーンチに向かったんだが」
オッターの親友、ピーター・グロスも彼から何も聞いていなかった。それで、彼はコロラド州のダスティン・パートリッジに電話した。「どうも良くない」とグロスは言った。パートリッジは閃いた。「ああ、なんと言うことだ。オッターが行方不明だ」
オッターの友人のリン・ユーディクとアート・ローア(組み合わせたトレイル名:TwoBadDogs)も不安になった。彼らはパートリッジに会ったことはなかったが、CDT 15で彼と頻繁にやり取りしていたので、彼を知っていた。トレイル・コミュニティは緊密で、トップハイカーとの関係があった。ユーディクとローアはマンコスに向かった。彼らはグロスとパートリッジが電話を切ったわずか1時間後に到着した。彼らはオッターがSPOTを持っていることを知っていた。というのは、ローアがマップをロードするのを手伝ったからである。ただ、彼らは、オッターが数ヶ月前にそれを捨てて、その毎月のわずかなサービス料を食物とマリファナに当てていたとは知らなかった。
彼らは、オッターのようなベテランのハイカーの捜索と救助を電話で要請するのはためらったが、とにかくそうすることにした。彼らはアルバカーキのニューメキシコ州警察のSARの長であるボブ・ロジャースに連絡した。ロジャーズはオッターのことは何も聞いていなかった。彼らはほぼ1時間、電話で話しをした。(その後、ロジャーズはオッターの兄ニールからも電話を受けた。)
ロジャーズはすぐに州の警官に警告を発したので、警官が騒ぎ始めた。彼らはAT&Tでオッターの電話に信号(ping)を入れたが、 信号は戻って来なかった。翌朝早く、パトロール女性のジョリーン・ジョーンズはチャマに行き、チャマ・ビジター・センターの長と話しをした。彼女はオットーがベンとジル・ウィッティングの家にいたこと、車でベンをカンブレス・パスまで送ったこと、オッターの目的地がアビクィウのゴースト・ラーンチであることを知っていた。ジョーンズがそこに電話をかけると、職員は、オッターの補給物資が11月初旬に到着したが、中の食物が腐り始めたので、職員がそれを開けたと言った。ロジャースはゴースト・ラーンチに行き、再確認した。彼はウディックに電話し、空の箱を見ていると言った。「彼はアビクィウに到達していない」と彼は言った。
チャマでは、ジョーンズはオッターに最後に会ったウィッティングと話をした。彼は、オッターが、南向きのトレイルを外れ、そのあたりのスパゲッティ状に混乱したトレイルをの1つを辿ったのではないかと彼女に話した。オッターの個人的なFacebookページと、その季節のCDTハイカーのページの両方が、アップデートで賑わい始めた。私も、彼がトレイルの代わりに未舗装の道路をハイキングする計画であると、カリフォルニアから知らせた。
「私はスノー・シューを作ろうとし、雪に大きく「助けて」と書いた。そして、誰かが上空を飛ぶと期待した。私は必ず誰かが来ると思ったし、彼らがなぜ来なかったのか、本当に理解できなかった。」
ボブ・ロジャースは、12月10日の空中捜索を発表しました。民間航空パトロールからセスナ3機が、チャマとゴースト・ラーンチの間のカーソン国有林の300平方マイルを飛行した時、風速は時速40マイルで、気温は氷点下であった。ラグニタス・キャンプ場は検索エリアの北端であったが、ウィルダネスのさまざまな地形があり、そこにぽつんといる人を上空から見つけることはほとんど不可能であった。風がパウダー・スノーをかき回し、何かが動いているという錯覚を作り出し、太陽が雪の表面をなめらかにする。飛行機の乗組員によると、見つける確率は25-30%だという。おそらく楽観的な数値であった。実際、こういう条件下で最北端を飛行した飛行機は、オッターの上空を通過したことに気づかなかった。
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12月10日までに、オッターは27日間動けなかった。彼はスキーで脱出しようと決心したが、彼は子供の頃に雪を平にならしていた時以来、スキーをしていなかった。「私は救助をあきらめた」と彼は書いた。「スキーを作って雪の上に立とう。曇っている所までスキーで脱出しようと決心した。」
オッターは小屋の屋根の金属板からスキーを作った。たぶん、その屋根はキャンパーが馬を入れる場所だったのだろう。オッターは合図のために屋根を燃やした。彼は2本の長い金属板をスキーに作りかえ、横木の針金からビンディグを作った。彼はその目的を日記に詳しく書いていないが、東に向かったのだろう。林道87号のラグニタスからその方向に向かうと、高原が終わり、地形は下って行く。27マイル離れた道路は、交通量の多いハイウェイ285に向かっている。ただ、オッターがそれを知っていたかどうかは分からない。ただ、スキーの初心者には丘や窪みはかなり難しい。「転倒した。カミソリのように鋭い金属製のスキーにすべて絡まって、本当に怪我をしたかもしれない。深い雪の中で立ち上がるのに数分もかかった」
しかし、救出のチャンスはあった。「私がキャンプ場の入り口にいた時、救助用の飛行機が私の上に飛んでいた。私は開けた場所にいた。彼らはキャンプ場の上空を飛んだ。雪が積もっていなかったので、嵐の後、私が燃やした建物を見たかもしれない。数分後、彼らは戻ってきた!彼らに激しく手を振った。私は開けた場所にいたので、彼らは私をちゃんと見たはずだ。私が救出される唯一のチャンスは、彼らが私を見たことだ」
その間、オッターは彼の計画に固執した。条件は厳しかった。初冬の雪は乾燥して軽かった。オッターはシューズで手製のビンディングを細かくコントロールできるようにした。「数マイル進んだが、雪の中に倒れ、雪の中でキャンプをした。一晩中眠れなかった。...その夜、スキーで戻るという決心をした。そうしないなら、そこで死んでいただろう。」
オッターはキャンプ場のトイレに戻ったた。これはセメントブロックでできた6×6フィートの構造物で、隅に便器があった。彼が燃やす前のシェルターは、スキー用の金属だけでなく、数十ポンドの馬の餌が蓄えられていた。トイレのセメントの床に麦を置き、石で割るとオートミールが調達できた。それで彼はもとの場所に留まり、食事をして、飛行機に望みを託した。「私の本能は、彼らが私を見ていないと言う。...彼らが現れなければ私は死ぬ。雪と風が吹き込まなかった日があった。昨夜は雪だった。晴天を期待して・・・救助してくれ...これが最も苦しい日だった。すべてはこれだった」
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オッターは知らなかったが、偽の目撃情報があったので、だれも、ニューメキシコ北部に注意をむけなくなった。目撃情報は12月10日にもたらされた。それは、グランツのラグニタスのキャンプ場の南西約200マイルを飛行機で捜索したのと同じ日だった。オッターの妹ミランダは、行方不明者のチラシの作成を手伝っていた。素晴らしい巻きひげで笑顔のオッターの写真は、チャマからメキシコ国境までトレイル沿いの町のFacebookに挙がっていた。写真が掲載されてすぐに、誤った目撃情報があった。バックパックを担いだひげを生やした男がグランツの森林局に歩いていった。彼は郵便局とモーテルへの道順を尋ね、11月にハイキングを始めたと言った。フロントにいるレンジャーはこのハイカーの名前を尋ねなかったが、彼はチラシを見て、それがオッターだと確信した。
ロジャースは大急ぎでモーテルに行き、あごひげを生やした男を見たという2人の従業員と話をした。しかし、彼の行き先は誰も知らなかった。グラントのトレイル・エンジェルであるキャロル・マムは、オッターのFacebookページを見た。「ああ、地元の救助隊から、あなたは大丈夫で、私たちの地域にいると聞きました。喜んで何でも手助けしますので、電話してください」その時点まで、オッターのケースは捜索と救助に分類されていた。それは、その人が所在不明で、差し迫った危険にあると思われる場合の分類である。しかし、すぐに、それは行方不明者のケースとして誤って再分類された。つまり、その人は生きていて、所在が分からないという場合の分類である。
ボブ・ロジャースはすでにラグニタスの南に捜索の焦点を移していた。オッターは通常、雪が降っていない状態で1日15マイルをハイキングしたと語ったが、ロジャーズは、最初の嵐の時、オッターが高地を越えていたと考えた。距離を計算して、彼はラグニタスの南17.7マイルにあるホープウェル・レイク・キャンプ場を調べた。何も分からなかったので、ロジャーズは、オッターがCDTの南にあるゴーストラーンチをスキップし、誰にも電話せずにグランツへのハイキングを続けたと考えた。
こういう条件下で最北端を飛行した飛行機は、オッターの上空を通過したことに気づかなかった。
オッターのウィルダネスに精通した友人たちは納得していなかった。「この周辺での捜索と救助が成功したというのは少なくとも非公式だ」とウィッティングは私に言った。ウィッティングは、カンブレス・パスでオッターを降ろした時に雪を見たので、それで、彼がひどく遅くしか歩けないのを知っていた。テレサ・マルティネスはトレイルの保存と促進に専念する非営利団体であるCDT連合の長であった。彼女は、ウィッティング、ナミエ・バシレ、地元の森林官のメアリー・スチューバーとプライベート・チャットを行った。マルティネスは、トレイルの友人、オッターの家族、およびSARの間の極めて重要な連絡先になった。「救助隊との電話を切ったところです。...地元のトレイル・コミュニティに電話をかけた方がよいかもしれない。その地域に向かう人を誰か知らないか」と、彼女は12月9日にグループに書きこんだ。
翌日、ウィッティングは、地形を考慮すると、スノー・モービルで捜索するのが最良の方法だと思うと答えた。「彼は87号線でラグニタス・キャンプ場に向かい、そこからホープウェル湖に向かうことを計画していた。雪があまり深くなければ、彼は嵐の前にキャンプ場まで行けただろう。誰かスノー・モービル・ツアーに参加したいかな、それとも一台を借りようか?」
しかし、誰もトロイ・チェンバースには手を伸ばさなかった。そこは、この地域で唯一のスノー・モービル用品店で、スノー・モービル・ガイドの会社だった。「残念だ」と今、彼は言う。「私たちはラグニタスのキャンプ場の近くにいたからだ。スノー・モービルではたっぷり半日以上かかる。」
グランツで誤った目撃が報告された後、注意はバックカントリーから遠ざかった。ウィルダネスを捜索することと、町でビラを配布することとの違いは非常に大きい。真っ白なウィルダネスの無言の謎を見つめるのを止めて、変わった方法で、道端を捜索するのは、気晴らしや慰めにはなる。しかし、ローア、ユーディク、および、オッターの他のハイキング・フレンドは、グランツの目撃情報が理解できなかった。ローアはコーテツからグランツまで3時間半運転し、最初にひげのハイカーを見たと報告したレンジャーと話した。少し話しただけで、それが絶対にオッターではない気づいた」と彼は言った。「レンジャーの表現は曖昧だった。つまり、オッターの群れだった。」
オッターの友人は、彼が以前にハイキングでグランツを通ったことを知っていた。それで、彼は郵便局の場所を知っていただけでなく、モーテルではなくトレイル・エンジェルの所に泊まったと思った。「それがオッターなら、彼は倒れてきた木で頭を打って、自分が誰だか、分からなくなったのだろう」とユーディクは言う。
しかし、彼と親しくない人々は、別の結論に近づいていた。CDTの連合のマルチネスはリン・ユーデックにメールを送った。「私はUSFSと話す最初の人でした」と、マルティネスは森林局のレンジャーのことを書いた。レンジャーは、オッターの服とパックを持った男がいると説明した。ロジャースは12月14日にユーディクに「グランツで目撃された男がオッターだとすると、さらに行方不明者の捜索を続ける理由が見いだせない、法執行機関に自分の行動を引き継ぐこともできない」とメールを出した。彼のケースは再分類されていたが、オッターの友人はグランツのセキュリティ・カメラの映像を切望して待った。しかし、12月16日、それが記録されていたハードディスクが損傷していたことが分かった。行方不明者の事件を調査している州の警察官は、彼の報告書に「対象者が危険にさらされていることを示す特定の情報はない」というメモを入れた。彼が出発してから1ヶ月が経ち、彼らは希望を失い始めた。
クリスマス・パートリッジと2人のハイカーがカンブレス・パスに車で行った直後、「そこに着いた。トレイルか道路を数百ヤード歩いた。地面には5フィートの雪が積もっていた。彼がそこに生きている可能性があるとは感じなかった」と彼らは言った。
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オッターは彼が見捨てられたと、はっきりと知ることはできなかった、捜索の気配がまったくないので、日が経つにつれて、彼はますます心配になった。「今、とても気分が悪い。...無力だ。…もうチャンスはない。」彼は自殺しようと思った。生涯にわたって、オッターは「自分のハイキングをしよう」と言っていた。これは他の人の考えに巻き込まれないための警告であった。今、彼は死ぬ準備を始めた。彼は淡々と書いた。「後で、ストーブを中に入れて、窒息しようと思った。おそらく上手くいかない。他は試していない。他の方法よりはるかに優れているので、完璧に落ち着いた。私は最後の日を楽しみ、残りの食べ物を食べ、暖かく過ごし、私の人生の美しいもの、良いこと、特に友人のことを考えるつもりだ。」
彼は日記にそれらをリストし、それぞれに別れを告げた。彼はピーター・グロスから始めた。「あなたは最高の親友だった」その後、彼は幼少期の友人について、それぞれ書いた。ほとんどの友人はフロリダに移住したが、繋がりが密接だったので、ハイキングの合間にフロリダに行った。その後、PGAツアーのゴルファーである彼の友人であるチャス・ボリングは、毎年オッターをコーチ兼キャディーとして雇った。「私はとても楽しかった。ありがとう。すべて感謝している。---ごめん、もうキャディはできない」
オッターは私にもメッセージを残した。「何が言えるかな? めちゃくちゃだ。君は何年間も私に優しかった」その後、彼はトレイルの友達のことを書いた「君たちみんなに。人生の残りをできるだけ楽しんで欲しい」
さよならを言って、オッターはストーブに火をつけて、トイレの酸素をすべて燃やしてしまい、窒息しようとした。上手くいかなかった。トイレは密閉されておらずく、強風のため、空気が安定して流れていた。
「12月17日。澄んでいるが、極寒。私はまだここにいて戦っている。体熱で水を溶かそうとする。...実際、気分はひどく悪く無い。オーツを一度に一つ食べて、一日中寝袋に入っていないといけない。少しも無駄にしたくない。残りは約20ポンド(9 kg) くらいだ。どれくらい続くか分からない。」
一度に数インチずつ雪が降り続け、トイレを埋めていった。嵐の間、突き刺すように寒く、気温は氷点下だった。オッターは寝袋に留まった。寝袋から出ると、もう一度温めるのに時間がかかりすぎた。彼は食べ物を夢見ていた。「一日中ピザを考えていた」と彼は書いた。彼が持っていたすべては、減っていくオート麦だった。彼は、自分が1日3回食事をする時、最高の気分になった。「こういう条件で人間はどれくらい生きられるのか?」彼は疑問に思った。「私はかつて水なしで3から5日、食物なしで1か月聞いたことがある。しかし、1日3食のオーツの場合はどうなのか?」
オッターは1ヶ月以上キャンプ場にいて、6週間行方不明だった。彼は、燃えがらのブロックのトイレ内に釘付けされた日々を過ごした。彼はセメントの床に斜めに寝た。贅沢なものと言えば、鋼鉄のドアで、吹雪が荒れ狂った時、薄っぺらなテントを守ってくれたことだ。
「月に1、2日しか晴れない。今は6週間以上経過した。物事を長引かせるという仕事をした」と彼は書いた。「水とオートミールに加えて、最大の問題はつま先だ。...まず、絶対に冷やさないようにしている。温めるのに何時間がかかるし、痛みを伴うからだ。」
「清算したい。願っている。...救助隊が来て欲しい。...最も苦しい日だ。すべてここに落ち着く。」
オッターが長生きする唯一のチャンスは、食物と水を得ることだった。彼はトイレのすぐ向こうの2つの湖の氷の下の魚と淡水に目を向けた。「私は木をとっておき、燃やして氷に穴を開けようとした。ラインにフックを取り付ければ...魚ではないかも、咬まないかも。しかし、上手くいけば、すべてが変わる。」
オットーは、タンパク質を入手できればスキーでカンブレス・パスに戻れるかもしれないと考えた。しかし、彼は衰弱していてもう木を集めることもできず、2つの湖のどちらかをうろついて、雪を取り除き、燃やして穴を作ろうとした。
1月にはもっと多くの嵐が来た。「まだ最大の嵐。雪が1フィート以上積もり、戸口と同じくらいの高さまで積もった。彼は一日中日記を書き、陽気になったり、落胆したりした。「私の人生は終わった!」と彼は書いた。「状況は変えられない。とても悲しい」
彼はケリを付けるために別のことを試みた。彼はのこぎりを握り、左手首の皮膚を切った。静脈から血が吹き出した。オッターは、傷が固まる前に1リットルの血を失ったと思った。その夜中、彼はずっと震えいた。翌朝、彼は釣り糸で手首を縫った。
オッターの日記の日時が信じられるなら、彼の絶望は数週間続いた。彼の説明では2月までは食料が保つ。「数日間、水を維持しようとするが、私にはできないことを知っている」と彼は書いた。雪は彼を取り囲んでいたが、彼は衰弱して立ち上がれなかったので、雪を集められなかった。それで、彼はそこに横たわり、ほとんど動かなかった。雪は彼の周りに積もり続けた。
最後の数日、おそらく数時間で、彼は自分の人生を日記にまとめた。
「私は決してどこにも溶け込めない!4歳からでないが、今までだ。ハイキング・コミュニティ以外はどこにもない」
「5年生の時のいじめはひどく、人生に傷を残した。...言葉にできないほど押しつぶされた。...とても不幸だったので、私たちは森から離れた。...私は逃げ出してヒッチハイクした。私は別の世界を発見し、それが人生を永遠に変えた。16歳で初めてマリファナをやったが、最高だった。初めて現実の痛みを免れた。西のPCTにハイキングに行った!初めてセックスした。」「私は脱水症状で死にそうで、水がない。とても激しく、とても悲しい...。私は無力で、衰弱している。...袋の中に横たわっているだけで50日になった...失われた日々。一日中、食べ物の夢。ああ、後悔はあるか。」
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2016年4月7日、イアン“ ダートウォルフ(DirtWolf)” クロムビーは、CDTでメキシコ国境から北に向かった。ニューメキシコ砂漠は暑くて乾燥していた。「景色のほかに、今日のハイライトは所々のトレイル・エンジェルの水だった」と彼は回想する。ほとんどのCDT志望者と同様に、クロムビーはベテランのハイカーで、すでにPCTを完了していた。出発してからほぼ1か月後、クロムビーは標高わずか2,000フィートで雪に遭遇した。ラグニタスの南30マイルだった。彼は泥道をとぼとぼと歩いた。「濡れた足のケアは止めた」と彼は言う。オッターがチャマを離れてから6か月後の5月10日、クロムビーは夜明け前に目を覚まし、固まった雪の上をラグニタス・キャンプ場に行った。
トイレの入り口は、雪解けで残った乾燥したほこりと散らばった松葉で覆われていた。自家製のスキーの正面は釣り合っていなかった。クロムビーは、ハイカーがそれらを前年に作ったかのか、疑問に思った。「それからドアが見えた」と彼は言う。塗装面に「警告」という言葉が刻まれていた。色あせた紙のメモがドアに貼り付けられていた。
トイレのなかに閉じ込められた死体がある。
それは
スティーブン・オルシャンスキー、別名
オッターだ。
当局に連絡してほしい
すぐにだ
本当だ
サンキュー
それは
スティーブン・オルシャンスキー、別名
オッターだ。
当局に連絡してほしい
すぐにだ
本当だ
サンキュー
クロムビーは、北上する途上、すべてのトレイル・タウンで、オッターの顔を印刷したチラシを見ていた。彼はトイレのドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。彼はニュースを届けるために北に向かって急いだ。「私は、最初、これは誰かに伝える必要があると本能的に感じた。オッターだ。」雪の中を歩き続けた。数日後、彼はチャマに着き、州の警察に連絡した。
彼らには厳しい任務があった。春は山には人がいない。スノー・モービルは裏庭に放置されている。小川は溢れていて釣りはできない。倒れた木は深く斜めになり、漂っている。「フォークナー将校はパトロール隊とその場所に行こうとしたが、道路が大きな雪で塞がれているため、キャンプ場に到達できなかった」と警察のレポートにある。フォークナーは援軍を求め、たくさんの部隊が、犯罪捜査官と森林局のレンジャーと一緒に、全地形用車両を集めた。それでも雪が非常に深く、ツボ足で、ラグニタスに行く必要があった。そして、やっとトイレのドアをこじ開けることができた。
内部では、オッターの死体はひどく腐敗していた。5月15日の午後、彼はようやく林道87号を下った。そこは彼がスキーで高速道路285号に行こうとした場所だ。彼の遺体はエスパノラの遺体安置所に運ばれ、火葬された。
その月の後半、オッターのトレイルの友人たちはニューメキシコに集まり、彼の要求に応じてお祝いをした。6月2日、彼の家族と古い友人たちは、ATがマサチューセッツ州のグレイロック山に至る東の場所に集まり、ビーバーズのために静かな記念式を開催した。ビーバーズの多くは彼を知っていた。彼が要求したように、私は彼らに加わった。彼の「最後の意志」は、彼の日記にラベルを付けたように、トイレの手すりに結び付けられていた。州警察はそれをオッターの兄弟ニールに渡し、彼はそれを書き起こして、私に送った。
私はそれを読んで、SARの専門家、彼の家族、彼のトレイルの友人、そしてフロリダで古い仲間たちと話をして、答えを探して2年以上費やした。オッターの死を非難するのは易しい。私には、彼が姿を消す2日前の彼からの電話の1つが気にかかっていた。オッターはこれまで以上にマリファナを吸っていた。「ハイになっちまって、チャマのマリファナなど、とにかく続けた」と彼は日記に書いた。
私が話したSARの専門家の1人は、飛行機はウィルダネスでの捜索には効果がなく、最初の捜索はほとんどすぐに偽の目撃によって取り消されたと言った。リン・ユーディクとアート・ローアから激しい抗議があったが、ボブ・ロジャースは町での確認された目撃例がなくてもウィルダネスの捜索を中断した。そして、ロジャースが森林局にラグニタスの近くで地上の捜索を行えるか尋ねたが、最終的に天候のためにそれが不可能になった。
ベン・ウィッティングは、森林局が捜索を試みたなら彼を見つけることができたと考える。ラグニタスのキャンプ場があった地域に隣接する国有林地区には、スノー・モービルを備えたレンジャーがいたが、彼らは捜索担当者ではなかった。「彼らは悪い奴だ!」と、チャマで彼を訪ねたとき、ウィッティングは言った。そういう行政的区分を越えて、すばやく捜索できたかもしれない。
トロイ・チャンバーズは最も近い所に住んでいて、地形に詳しかった。彼は誰かに請われれば数時間以内にオッターを見つけられただろう。しかし、チャンバースは、ボブ・ロジャースの管轄外にあるコロラド州の州境にいた。
私は彼はもう死んでいると思ったので、あまりに早く友人を諦めてしまった。オッターが高い山のピークを避けると言っていた。それで、私は雪について考えたことはなかった。代わりに、私は彼がほこりだらけの岩盤の端を歩いて、ボロボロの砂岩が崩れ落ちるのを想像した。ナミエ・バシレはまた、彼が滑って落ちたと思った。他の人は雪崩だと思った。リン・ユーディクは、これら様々な要因が致命的な結果になることを恐れていた。
もっとできたと思うのは簡単だ。おそらく何かできるのは私だけだった。ダスティン・パートリッジはスキーがそれほど上手ではなかった。ベン・ウィッティングにはインフルエンザにかかっていた。東方のオッターの家族と友人は、ウィルダネスを歩く方法を知らなかった。
こういう話はすべて何ヶ月も後のことだ。それより私は、オッターが彼の生涯の終わりに、死やピザのことを乗り越えて、言葉を残していることを好む。1月のある穏やかな朝、彼は借りた部屋のドアに寄りかかって開け、寝袋を外に半分ほど滑らせて、日光を頬に当てて、暖かくして寝ていた。私は、彼が最初にアパラチアン・トレイルを若々しく歩いた時から、彼がどれだけの旅をしていたかを想像する。彼の魅力は彼を理解することだ。ピザが保証されず、死が近い日でも、我々のどんな部屋も借り物で、アウトドアへの踏み出すことは永遠への道に繋がる。
オッターは、彼の側では、執着心が著しく欠けていた。「人生はハイキングだ」と彼はブロの終わりに何時も書いていた。彼のハイキングは終わった。彼の日記は、生涯に渡ってウィルダネスで自立の習慣に支えられていて、彼の行動と怠慢は、ほとんどオッター自身の責任である。「これは、私の人生の、自分の行為の結果だ」と彼は書いた。彼は他人を非難したりしないし、彼らがもっとなすべきだったと望んでいない。代わりに、日誌の最後で、彼は単に記憶していて欲しいと書いた。彼は、友人に、自分が死んだ時のことではなく、生きていた時のことを思い出して欲しいと書いた。
「これは、スティーブン・ビーバーズ、
善良な人間、善良な魂、良き友人のための
ものです。彼が今ここにいればいいのにと思う。」
善良な人間、善良な魂、良き友人のための
ものです。彼が今ここにいればいいのにと思う。」