2019年12月28日土曜日

SNOWBOUND( 雪に囚われて )

OutsideというWebにSNOWBOUNDという記事があり、引き込まれて読んでしまった。これは翻訳すべきだと感じた。やや難しい英語なので、ほとんどの日本人には難しいからだ。ベテラン・スルー・ハイカーが雪に閉じ込められたという話だが、いくつか教訓があるだろう。
1.SPOT(衛星通信装置)の費用(月数ドルだが)をけちって食料やマリファナに回した。
2.山に向かうタイミングが遅かった。大きな冬の嵐が来るという天気予報を無視した。
3.彼は紙の地図を持ってなかった。
4.装備がウルトラライトでぎりぎりだった。(足から凍傷になっている)
怖い話なので、元気な時にゆっくりと読んでください。
I have read the article "SNOWBOUND" in Outside Magazine. I feel I should translate this into Japanese because its English is a little difficult for most of the Japanese. It is a story that an experienced thru-hiker was confined in the snow. We should learn something from here.
1. He had SPOT but he stopped to use it. The subscription fee might be a few dollars, but he used this money for weed and food.
2. The timing of entering mountains is too late, and he hiked against the weather forecast that the big storm would come.
3. He has no paper map.
4. The equipment is too ultralight. ( the frostbite began at his feet )
This is a terrible story. Stay calm. Read slowly. Good Luck.
ダグ・ロビンソン S N O W B O U N D ( 雪に囚われて )
2015年11月、ベテランのスルー・ハイカー、スティーブン・オッター・オルシャンスキー(Stephen“Otter” Olshansky)はニューメキシコ州北部のContinental Divide Trailにいた。その時、冬の嵐が来て、数フィートの雪が積もった。彼は動けなくなり、食料がなくなり、キャンプ場のトイレをなんとか探し、中に閉じこもり、助けが来るのを祈った。
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はじけるような美しい2015年の秋、、スティーブン・オルシャンスキーは、コロラドの山岳地帯を南に向かってハイキングしていたので、冬の到来が恐ろしいことを知っていた。秋の嵐が来て、雪が降った。雪は彼を止めるほどではなかったが、彼の歩みは遅くなった。彼はコンチネンタルディバイド・トレイルの最高峰をほぼ通過していた。コロラド州南部のサンファン山脈で、「9,000フィート以上では脹ら脛から膝まで雪に潜っている」と彼はブログに書いた。
オルシャンスキーはベテランのスルー・ハイカーで、トレイル名はオッター(Otter, カワウソ)。彼は雪を知っていた。彼はしばしばサウスパウンダー(sobo)で、セクション・ハイカーではなく、雪が完全に溶ける前の春に長距離トレイルの北端から始めてスルー・ハイクを行っていた。「彼はマスターであり、エキスパートのトップでした」と、オッターのスルー・ハイキング・フレンドのアート・ローは言う。しかし、オッターが前年に経験したのは春の雪で、固くしまっていたので、その上を歩くことができた。
10月下旬までに、秋は急速に冬に向かっいた。しかしオッターは慌てなかった。彼は友人と一緒に一度に何日も休んだ。最初、州の南西の隅のマンコスという町で、彼はポテトチップスを喉に詰まるほど食べ、ダスティン・パートリッジ(トレイル名:ドーバーのプロ)と一緒にワールドシリーズを見た。その後、彼は80マイル東のパゴサス・プリングスに移動し、ナミエ・バシレ(トレイル名:LetItBe)一緒に過ごした。ナミエは、AT(2,190マイル)、PCT(2,650マイル)、CDT(3,100マイル)をスルー・ハイクしたトリプル・クラウナーであった。
オッターは再びCDTを歩く前に、私に電話した。私は彼と友達でした。私たちは2000年、シエラネバダの晩秋の深雪をナビゲートするのを手伝ったときに会った。それ以来、時折連絡を取り合っていた。オッターは電話で寒い天候を予想していると言い、チタン製のウッドストーブとテントを送ってくれないかと言った。ストーブの重さは1.6ポンドで、ストーブパイプを広げると平らになった。私はそれらを一緒に送った。彼は、ニューメキシコ州チャマで、トレイル・エンジェルのベンとジル・ウィッティングの雪に覆われた裏庭でキャンプしながら新しい冬の道具をテストした。彼は夜の間、ウィッティングの南のルートの地図を調べ、大きな冬の嵐が来るという天気予報を見ていた。 「私たちが話したことはほぼすべてです」とベン・ウィッティングは私に言った。
彼がこれから向かう土地は、ニューメキシコで、縁辺岩地帯であった。彼が数百マイルをハイキングする千年前に、赤い砂岩のプエブロの人たちは、遠く離れた崖の住居を繋いでいた。CDTのその部分は十分に高く、10,022フィートのクンブレス・パスから始まり、所々、11,000フィート以上の高さがある。この地域は一見平坦に見えるが、所々、木々が密生したり、何も生えていなかったり、突然、崖に落ち込む前に緩やかだったりする。しかし、オッターは、その地形を経験していたので、天候にかかわらず、歩きたかった。一度、ハイキングした後は、彼は必要な契約を多くかかえていたので、ゴルフのプロとして働いた。彼はベン・ウィッティングの地図の提供を断った。
11月14日、ウィッティングは車でオッターをクンブレス・パスまで送った。気温10度のよく晴れた日だった。彼はオッターに75マイル南のゴースト・ラ-ンチに着いたときに電話するように言った。オッターは、2週間分の大量の食料を担いでいた。グローサリー・ストアの食料で、フリーズドライ食品は無かった。オッターが雪に覆われた小道から消えると、ウィッティングの若い息子のウェルズは恥ずかしそうに手を振った。2週間後、ウィッティングはまだ電話を待っていた。
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スティーブン・オルシャンスキーは1956年に生まれ、ニューヨークのニューロシェルで育った。彼のアウトドアへの愛は彼の家の周りの森から始まった。彼の友人の家への道はその長い森だった。そこではオッター(カワウソ)やビーバーが繁殖していた。家族が数マイル離れたところに引っ越した時、彼はその小さな荒野から切り離された。「同じ町、同じ小学校、すべては同じ。ただ、森はなかった」と兄のニールは言う。その結果、オッターの何かが変化した。彼は内向的になり、森で見つけた慰めをさらに熱心に探し求めているようだった。
彼は7歳の時にニューハンプシャーのサマー・キャンプでハイキングを始めた。アパラチアン・トレイルはサマー・キャンプのすぐ傍だった。続く7年間、夏に、彼はそれをどんどん歩いて行った。(後に、彼がアリゾナに訪れた時、ネイティブアメリカンがオッターというトレイル・ネイムを付けたと友人は言う。)
オッターは頭が良かったが、高校ではすぐに退屈してしまった。 (彼は一度、ニューヨークに行って全国チェス選手権に出場し、彼の年齢グループで優勝した。彼の友人は彼がプレーしたことすら知らなかった。)彼はほとんど学校を捨てて、映画を見たり、ゴルフをした。しかし、彼はアメリカ最長のトレイルに引きつけられた。 彼は、20代前半にATの最初のスルー・ハイキングを行い、彼の人生は夏中ずっとハイキングし、その後、冬の間、フロリダでゴルフのプロとして働くことに落ち着いた。2001年、私がフロリダの彼を訪問した時、床の真ん中に立てたテントしかなかった。
オッターは、毎年、トレイルを次々と歩き、小さいながらも成長しつつあるスルー・ハイカーのコミュニティの最も優秀なメンバーの1人になった。私が初めてオッターに会ったのは、パシフィック・クレスト・トレイルの雪の中であった。彼は、2000年の初めてのサウスパウンダーだった。彼は春にカナダ国境を出発した。ハイキングポール(その時には革新的だった)とアイスアックスを持っていた。ノースカスケードは200マイルほど、固い雪で覆われていた。彼は、固い雪で時々スリップしてパニックになったが、歩く速度が落ちただけで、シェラネバダには10月に着いた。
初冬の嵐が来て雪が2フィート降ったので、彼はヨセミテ東部のマンモスに下りた。そこで、彼は私を呼び、ガイドを依頼した。私は何時もはスキーだがスノーシューとロープを持っていった。オットーはスキーができないし、林のなので練習もできなかった。13,15フィートのフォレスター・パスを超えて、PCTのもっとも高い、凍った所を200マイル以上歩いた。
オッターと私は友達になった。私は彼がハイキングのムービーを撮るのを手伝った。テレビがメジャーになる前のことだ。彼は数え切れないほどのトレイル映像を蓄積したが、興味を示したプロデューサーはいなかった。それでも、私たちが話したり、ハイキングしたり、マリファナを補給する、遠くのトレイルヘッドで、彼は何年もの間、その件を持ち出した。
2014年までに、ニューメキシコからモンタナまでロッキー山脈を繋ぐCDTは彼のお気に入りとなった。トレイルはわずか70%しか完成していないため、狩猟用トレイルと林道でいくつかのセクションをつなぐ必要があった。スルー・ハイキングのワイルド・ウェストだった。
オッターは2015年にCDTをハイキングする予定はなかった。その年の3月に、彼はカリフォルニアの海岸をバックパッキングし、オレゴン州から東に向かってアイダホ州に向かった。そこで、彼は州の端を取り巻く推奨トレイルのことを聞いた。彼は、州の南端を歩いてモンタナへ行くこと計画した。それは8月で、私の知る限りでは、ハイカーがメキシコに向かってCDTをスタートするにはもっとも遅かった。
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オッターが11月にカンブレス・パスを出発してカーソン国有林に向かうと、すぐさま、彼は自分が困っていることに気付いた。彼は「私はすぐにひどい衰弱に苦しみ始めた。立ち上がると、気が遠くなった」と、苦難の間ずっと続けていた日記に書いた。彼がウィッティングズに滞在している間にインフルエンザにかかった可能性がある。ベンはそれで3週間働けなかった。しかし、彼が回復した後でも、オッターにはきつかった。「雪は所々腰までの深さだった」と彼は書いた。「私は露出した地面を1つの場所を見つけ、テントを張った。雪が降り始め、火曜日[11月17日]にやんだ時、雪は1フィート以上になった」
トロイ・チェンバーズは、嵐が訪れたとき、カンブレス・アドベンチャー・ツアーの観光客を案内する冬のスノー・モービルの準備をしていた。そこは高速道路17の高い場所、オッターがテントを張った所から遠くなかった。「少なくとも2フィート半の雪があった」と、チェンバースはカウボーイの声で私に言った。「この会社がツアーを行ったのはこれが最も早い。」
オッターのルートは、チャンバーの通常のスノー・モービル・ツアーの範囲を超えていた。高原の地方だった。夏には、無数の小さな尾根に誘惑されるが、しかし、夏は過ぎ去って長い。雪はすでにトレイルを埋めていて、何マイルも歩こうとは思わない。
嵐はすぐに過ぎ去ったが、気温は急落した。最高気温は-7度以下で、雪を溶かしたり固めたりするのに必要なものにさえ近くにはなかった。「私は水曜日に戻ろうとしたが、12マイルのうち1マイルしか戻れなかった。そこでもう一度キャンプサイトにやっとのことで戻った」と彼は書いた。「私は病気で、雪に囚われて、SPOTがなかった」。SPOTは緊急通報装置のことである。
オッターは、電話を取り出し、ビデオで記録した。これは、電話機は、以前は地図を保存したり、ごくまれだが、サービスを提供したときに友人に電話をかけたりしていた。
(オッターの最初のビデオ録画)
このビデオ・クリップでは、彼は悪く見えず、彼の声は思慮深い。「私は大きな問題を抱えている」と彼は言う。「昨日、脱出しようとした」私が彼に送ったテントの端に、森の中に足跡が見える。オッターはダウン・ジャケット、フリース・プルオーバー、長い下着を持っていた。いくつかはむき出しで、すべてウルトラライトだった。スルーハイカーの経験に忠実で、寒い夜のためにマイナス30度対応の寝袋を持っていたが、速く動いている時だけ温かいという衣服だった。オッターは、カスタムメイドのリマー・ブーツではなく、ランニング・シューズを履いていた。リマー・ブーツは暖かいが重いので、コネチカット州の弟の地下室に置いてきた。「股間までの深い雪と高度のため...つま先も暖かく保てなかった」と彼はビデオで言っている。「私は本当にサイコロを振って負けた。...今すぐ、奇跡が必要だ」
6日目は11月19日だった。一番の問題はオッターのつま先が凍傷の第1段階にあったことだ。それは感謝祭に近く、一年で最も日差しが短かった。分水嶺に沿う山々は冬が深くなった。彼はテントに置き去りにされた。それから、「風が強くなり、大きな嵐が来た。まる一週間、吹雪いた。その間、私はスノー・シューを作ろうとし、雪に大きく「助けて」と書いた。そして、誰かが上空を飛ぶと期待した。私は必ず誰かが来ると思ったし、彼らがなぜ来なかったのか、本当に理解できなかった。がっかりした。スノー・モービルも飛行機もなし」
(オッターの2番目のビデオ録画)
オッターは、12月1日まで17日間そこに留まった(バックカントリーでは時間経過がすぐに分からなくなる。オッターの日誌は数日間抜けていた可能性がある)。1フィートずつ雪が積もっていった。チェンバーズはスノー・モービルのツアーで忙しかった。彼はオッターがテントを張った場所から8マイル北まで、誰も連れて行ったことはほとんどないと言った。数人のバックカントリー・スキーヤーがパスの近くでパウダーを滑ったが、冬にその地方の奥深くまで行く人はほとんどいない。
最初の2週間半で救助されなかったので、オッターは「私の人生で最大の決断」という選択に直面した。オプション1:じっとして救助を期待する。オプション2:東か西に向かう。彼の作ったスノーシューは、頑丈な枝に、貧弱な下着から引き裂いた布を打ち付けた物で、おそらく、分水嶺の有名な軽いパウダーでも長くは保たないだろう。オプション3:南の低い地方に行けばおそらく雪が少ないだろう。彼は、電話が死ぬ前に、地図で南へ3マイルの所にラグニタスというキャンプ場を見たことを思い出した。「そこにはトイレがあり、一度寝たことがある」と彼は書いた。
(オッターの最後のビデオ録画)
結局、トイレを避難所にするという見通しで、彼はテントをまとめて南に進んだ。
「あの日、勇気を精一杯出して荷造りした。...200ヤードを歩いたが、腰までの深い雪で、疲れ果てて身をかがめた。17日間過ごした場所を振り返った。...安全だが、棺桶だった...数歩歩いて、身をかがめ、丸一日かかった。私は一歩も先に進めず、雪の中で寝ようとしていた。左を見たところ、トイレを見つけた。...私は震えながら、氷箱の中に潜り込んだ。寝袋に入り、温かい物を飲もうとウッド・ストーブを組み立てた。」
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最初にオッターの居場所が分からないと書いたのはベン・ウィッティングだった。彼は、11月29日に、スルーハイカーのFacebookページのCDT 15にログオンした。「先週かそこら、オッターから何か連絡はなかったか?彼はここ(チャマ)を出発し、11月14日にゴースト・ラーンチに向かったんだが」
オッターの親友、ピーター・グロスも彼から何も聞いていなかった。それで、彼はコロラド州のダスティン・パートリッジに電話した。「どうも良くない」とグロスは言った。パートリッジは閃いた。「ああ、なんと言うことだ。オッターが行方不明だ」
オッターの友人のリン・ユーディクとアート・ローア(組み合わせたトレイル名:TwoBadDogs)も不安になった。彼らはパートリッジに会ったことはなかったが、CDT 15で彼と頻繁にやり取りしていたので、彼を知っていた。トレイル・コミュニティは緊密で、トップハイカーとの関係があった。ユーディクとローアはマンコスに向かった。彼らはグロスとパートリッジが電話を切ったわずか1時間後に到着した。彼らはオッターがSPOTを持っていることを知っていた。というのは、ローアがマップをロードするのを手伝ったからである。ただ、彼らは、オッターが数ヶ月前にそれを捨てて、その毎月のわずかなサービス料を食物とマリファナに当てていたとは知らなかった。
彼らは、オッターのようなベテランのハイカーの捜索と救助を電話で要請するのはためらったが、とにかくそうすることにした。彼らはアルバカーキのニューメキシコ州警察のSARの長であるボブ・ロジャースに連絡した。ロジャーズはオッターのことは何も聞いていなかった。彼らはほぼ1時間、電話で話しをした。(その後、ロジャーズはオッターの兄ニールからも電話を受けた。)
ロジャーズはすぐに州の警官に警告を発したので、警官が騒ぎ始めた。彼らはAT&Tでオッターの電話に信号(ping)を入れたが、 信号は戻って来なかった。翌朝早く、パトロール女性のジョリーン・ジョーンズはチャマに行き、チャマ・ビジター・センターの長と話しをした。彼女はオットーがベンとジル・ウィッティングの家にいたこと、車でベンをカンブレス・パスまで送ったこと、オッターの目的地がアビクィウのゴースト・ラーンチであることを知っていた。ジョーンズがそこに電話をかけると、職員は、オッターの補給物資が11月初旬に到着したが、中の食物が腐り始めたので、職員がそれを開けたと言った。ロジャースはゴースト・ラーンチに行き、再確認した。彼はウディックに電話し、空の箱を見ていると言った。「彼はアビクィウに到達していない」と彼は言った。
チャマでは、ジョーンズはオッターに最後に会ったウィッティングと話をした。彼は、オッターが、南向きのトレイルを外れ、そのあたりのスパゲッティ状に混乱したトレイルをの1つを辿ったのではないかと彼女に話した。オッターの個人的なFacebookページと、その季節のCDTハイカーのページの両方が、アップデートで賑わい始めた。私も、彼がトレイルの代わりに未舗装の道路をハイキングする計画であると、カリフォルニアから知らせた。
「私はスノー・シューを作ろうとし、雪に大きく「助けて」と書いた。そして、誰かが上空を飛ぶと期待した。私は必ず誰かが来ると思ったし、彼らがなぜ来なかったのか、本当に理解できなかった。」
ボブ・ロジャースは、12月10日の空中捜索を発表しました。民間航空パトロールからセスナ3機が、チャマとゴースト・ラーンチの間のカーソン国有林の300平方マイルを飛行した時、風速は時速40マイルで、気温は氷点下であった。ラグニタス・キャンプ場は検索エリアの北端であったが、ウィルダネスのさまざまな地形があり、そこにぽつんといる人を上空から見つけることはほとんど不可能であった。風がパウダー・スノーをかき回し、何かが動いているという錯覚を作り出し、太陽が雪の表面をなめらかにする。飛行機の乗組員によると、見つける確率は25-30%だという。おそらく楽観的な数値であった。実際、こういう条件下で最北端を飛行した飛行機は、オッターの上空を通過したことに気づかなかった。
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12月10日までに、オッターは27日間動けなかった。彼はスキーで脱出しようと決心したが、彼は子供の頃に雪を平にならしていた時以来、スキーをしていなかった。「私は救助をあきらめた」と彼は書いた。「スキーを作って雪の上に立とう。曇っている所までスキーで脱出しようと決心した。」
オッターは小屋の屋根の金属板からスキーを作った。たぶん、その屋根はキャンパーが馬を入れる場所だったのだろう。オッターは合図のために屋根を燃やした。彼は2本の長い金属板をスキーに作りかえ、横木の針金からビンディグを作った。彼はその目的を日記に詳しく書いていないが、東に向かったのだろう。林道87号のラグニタスからその方向に向かうと、高原が終わり、地形は下って行く。27マイル離れた道路は、交通量の多いハイウェイ285に向かっている。ただ、オッターがそれを知っていたかどうかは分からない。ただ、スキーの初心者には丘や窪みはかなり難しい。「転倒した。カミソリのように鋭い金属製のスキーにすべて絡まって、本当に怪我をしたかもしれない。深い雪の中で立ち上がるのに数分もかかった」
しかし、救出のチャンスはあった。「私がキャンプ場の入り口にいた時、救助用の飛行機が私の上に飛んでいた。私は開けた場所にいた。彼らはキャンプ場の上空を飛んだ。雪が積もっていなかったので、嵐の後、私が燃やした建物を見たかもしれない。数分後、彼らは戻ってきた!彼らに激しく手を振った。私は開けた場所にいたので、彼らは私をちゃんと見たはずだ。私が救出される唯一のチャンスは、彼らが私を見たことだ」
その間、オッターは彼の計画に固執した。条件は厳しかった。初冬の雪は乾燥して軽かった。オッターはシューズで手製のビンディングを細かくコントロールできるようにした。「数マイル進んだが、雪の中に倒れ、雪の中でキャンプをした。一晩中眠れなかった。...その夜、スキーで戻るという決心をした。そうしないなら、そこで死んでいただろう。」
オッターはキャンプ場のトイレに戻ったた。これはセメントブロックでできた6×6フィートの構造物で、隅に便器があった。彼が燃やす前のシェルターは、スキー用の金属だけでなく、数十ポンドの馬の餌が蓄えられていた。トイレのセメントの床に麦を置き、石で割るとオートミールが調達できた。それで彼はもとの場所に留まり、食事をして、飛行機に望みを託した。「私の本能は、彼らが私を見ていないと言う。...彼らが現れなければ私は死ぬ。雪と風が吹き込まなかった日があった。昨夜は雪だった。晴天を期待して・・・救助してくれ...これが最も苦しい日だった。すべてはこれだった」
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オッターは知らなかったが、偽の目撃情報があったので、だれも、ニューメキシコ北部に注意をむけなくなった。目撃情報は12月10日にもたらされた。それは、グランツのラグニタスのキャンプ場の南西約200マイルを飛行機で捜索したのと同じ日だった。オッターの妹ミランダは、行方不明者のチラシの作成を手伝っていた。素晴らしい巻きひげで笑顔のオッターの写真は、チャマからメキシコ国境までトレイル沿いの町のFacebookに挙がっていた。写真が掲載されてすぐに、誤った目撃情報があった。バックパックを担いだひげを生やした男がグランツの森林局に歩いていった。彼は郵便局とモーテルへの道順を尋ね、11月にハイキングを始めたと言った。フロントにいるレンジャーはこのハイカーの名前を尋ねなかったが、彼はチラシを見て、それがオッターだと確信した。
ロジャースは大急ぎでモーテルに行き、あごひげを生やした男を見たという2人の従業員と話をした。しかし、彼の行き先は誰も知らなかった。グラントのトレイル・エンジェルであるキャロル・マムは、オッターのFacebookページを見た。「ああ、地元の救助隊から、あなたは大丈夫で、私たちの地域にいると聞きました。喜んで何でも手助けしますので、電話してください」その時点まで、オッターのケースは捜索と救助に分類されていた。それは、その人が所在不明で、差し迫った危険にあると思われる場合の分類である。しかし、すぐに、それは行方不明者のケースとして誤って再分類された。つまり、その人は生きていて、所在が分からないという場合の分類である。
ボブ・ロジャースはすでにラグニタスの南に捜索の焦点を移していた。オッターは通常、雪が降っていない状態で1日15マイルをハイキングしたと語ったが、ロジャーズは、最初の嵐の時、オッターが高地を越えていたと考えた。距離を計算して、彼はラグニタスの南17.7マイルにあるホープウェル・レイク・キャンプ場を調べた。何も分からなかったので、ロジャーズは、オッターがCDTの南にあるゴーストラーンチをスキップし、誰にも電話せずにグランツへのハイキングを続けたと考えた。
こういう条件下で最北端を飛行した飛行機は、オッターの上空を通過したことに気づかなかった。
オッターのウィルダネスに精通した友人たちは納得していなかった。「この周辺での捜索と救助が成功したというのは少なくとも非公式だ」とウィッティングは私に言った。ウィッティングは、カンブレス・パスでオッターを降ろした時に雪を見たので、それで、彼がひどく遅くしか歩けないのを知っていた。テレサ・マルティネスはトレイルの保存と促進に専念する非営利団体であるCDT連合の長であった。彼女は、ウィッティング、ナミエ・バシレ、地元の森林官のメアリー・スチューバーとプライベート・チャットを行った。マルティネスは、トレイルの友人、オッターの家族、およびSARの間の極めて重要な連絡先になった。「救助隊との電話を切ったところです。...地元のトレイル・コミュニティに電話をかけた方がよいかもしれない。その地域に向かう人を誰か知らないか」と、彼女は12月9日にグループに書きこんだ。
翌日、ウィッティングは、地形を考慮すると、スノー・モービルで捜索するのが最良の方法だと思うと答えた。「彼は87号線でラグニタス・キャンプ場に向かい、そこからホープウェル湖に向かうことを計画していた。雪があまり深くなければ、彼は嵐の前にキャンプ場まで行けただろう。誰かスノー・モービル・ツアーに参加したいかな、それとも一台を借りようか?」
しかし、誰もトロイ・チェンバースには手を伸ばさなかった。そこは、この地域で唯一のスノー・モービル用品店で、スノー・モービル・ガイドの会社だった。「残念だ」と今、彼は言う。「私たちはラグニタスのキャンプ場の近くにいたからだ。スノー・モービルではたっぷり半日以上かかる。」
グランツで誤った目撃が報告された後、注意はバックカントリーから遠ざかった。ウィルダネスを捜索することと、町でビラを配布することとの違いは非常に大きい。真っ白なウィルダネスの無言の謎を見つめるのを止めて、変わった方法で、道端を捜索するのは、気晴らしや慰めにはなる。しかし、ローア、ユーディク、および、オッターの他のハイキング・フレンドは、グランツの目撃情報が理解できなかった。ローアはコーテツからグランツまで3時間半運転し、最初にひげのハイカーを見たと報告したレンジャーと話した。少し話しただけで、それが絶対にオッターではない気づいた」と彼は言った。「レンジャーの表現は曖昧だった。つまり、オッターの群れだった。」
オッターの友人は、彼が以前にハイキングでグランツを通ったことを知っていた。それで、彼は郵便局の場所を知っていただけでなく、モーテルではなくトレイル・エンジェルの所に泊まったと思った。「それがオッターなら、彼は倒れてきた木で頭を打って、自分が誰だか、分からなくなったのだろう」とユーディクは言う。
しかし、彼と親しくない人々は、別の結論に近づいていた。CDTの連合のマルチネスはリン・ユーデックにメールを送った。「私はUSFSと話す最初の人でした」と、マルティネスは森林局のレンジャーのことを書いた。レンジャーは、オッターの服とパックを持った男がいると説明した。ロジャースは12月14日にユーディクに「グランツで目撃された男がオッターだとすると、さらに行方不明者の捜索を続ける理由が見いだせない、法執行機関に自分の行動を引き継ぐこともできない」とメールを出した。彼のケースは再分類されていたが、オッターの友人はグランツのセキュリティ・カメラの映像を切望して待った。しかし、12月16日、それが記録されていたハードディスクが損傷していたことが分かった。行方不明者の事件を調査している州の警察官は、彼の報告書に「対象者が危険にさらされていることを示す特定の情報はない」というメモを入れた。彼が出発してから1ヶ月が経ち、彼らは希望を失い始めた。
クリスマス・パートリッジと2人のハイカーがカンブレス・パスに車で行った直後、「そこに着いた。トレイルか道路を数百ヤード歩いた。地面には5フィートの雪が積もっていた。彼がそこに生きている可能性があるとは感じなかった」と彼らは言った。
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オッターは彼が見捨てられたと、はっきりと知ることはできなかった、捜索の気配がまったくないので、日が経つにつれて、彼はますます心配になった。「今、とても気分が悪い。...無力だ。…もうチャンスはない。」彼は自殺しようと思った。生涯にわたって、オッターは「自分のハイキングをしよう」と言っていた。これは他の人の考えに巻き込まれないための警告であった。今、彼は死ぬ準備を始めた。彼は淡々と書いた。「後で、ストーブを中に入れて、窒息しようと思った。おそらく上手くいかない。他は試していない。他の方法よりはるかに優れているので、完璧に落ち着いた。私は最後の日を楽しみ、残りの食べ物を食べ、暖かく過ごし、私の人生の美しいもの、良いこと、特に友人のことを考えるつもりだ。」
彼は日記にそれらをリストし、それぞれに別れを告げた。彼はピーター・グロスから始めた。「あなたは最高の親友だった」その後、彼は幼少期の友人について、それぞれ書いた。ほとんどの友人はフロリダに移住したが、繋がりが密接だったので、ハイキングの合間にフロリダに行った。その後、PGAツアーのゴルファーである彼の友人であるチャス・ボリングは、毎年オッターをコーチ兼キャディーとして雇った。「私はとても楽しかった。ありがとう。すべて感謝している。---ごめん、もうキャディはできない」
オッターは私にもメッセージを残した。「何が言えるかな? めちゃくちゃだ。君は何年間も私に優しかった」その後、彼はトレイルの友達のことを書いた「君たちみんなに。人生の残りをできるだけ楽しんで欲しい」
さよならを言って、オッターはストーブに火をつけて、トイレの酸素をすべて燃やしてしまい、窒息しようとした。上手くいかなかった。トイレは密閉されておらずく、強風のため、空気が安定して流れていた。
「12月17日。澄んでいるが、極寒。私はまだここにいて戦っている。体熱で水を溶かそうとする。...実際、気分はひどく悪く無い。オーツを一度に一つ食べて、一日中寝袋に入っていないといけない。少しも無駄にしたくない。残りは約20ポンド(9 kg) くらいだ。どれくらい続くか分からない。」
一度に数インチずつ雪が降り続け、トイレを埋めていった。嵐の間、突き刺すように寒く、気温は氷点下だった。オッターは寝袋に留まった。寝袋から出ると、もう一度温めるのに時間がかかりすぎた。彼は食べ物を夢見ていた。「一日中ピザを考えていた」と彼は書いた。彼が持っていたすべては、減っていくオート麦だった。彼は、自分が1日3回食事をする時、最高の気分になった。「こういう条件で人間はどれくらい生きられるのか?」彼は疑問に思った。「私はかつて水なしで3から5日、食物なしで1か月聞いたことがある。しかし、1日3食のオーツの場合はどうなのか?」
オッターは1ヶ月以上キャンプ場にいて、6週間行方不明だった。彼は、燃えがらのブロックのトイレ内に釘付けされた日々を過ごした。彼はセメントの床に斜めに寝た。贅沢なものと言えば、鋼鉄のドアで、吹雪が荒れ狂った時、薄っぺらなテントを守ってくれたことだ。
「月に1、2日しか晴れない。今は6週間以上経過した。物事を長引かせるという仕事をした」と彼は書いた。「水とオートミールに加えて、最大の問題はつま先だ。...まず、絶対に冷やさないようにしている。温めるのに何時間がかかるし、痛みを伴うからだ。」
「清算したい。願っている。...救助隊が来て欲しい。...最も苦しい日だ。すべてここに落ち着く。」
オッターが長生きする唯一のチャンスは、食物と水を得ることだった。彼はトイレのすぐ向こうの2つの湖の氷の下の魚と淡水に目を向けた。「私は木をとっておき、燃やして氷に穴を開けようとした。ラインにフックを取り付ければ...魚ではないかも、咬まないかも。しかし、上手くいけば、すべてが変わる。」
オットーは、タンパク質を入手できればスキーでカンブレス・パスに戻れるかもしれないと考えた。しかし、彼は衰弱していてもう木を集めることもできず、2つの湖のどちらかをうろついて、雪を取り除き、燃やして穴を作ろうとした。
1月にはもっと多くの嵐が来た。「まだ最大の嵐。雪が1フィート以上積もり、戸口と同じくらいの高さまで積もった。彼は一日中日記を書き、陽気になったり、落胆したりした。「私の人生は終わった!」と彼は書いた。「状況は変えられない。とても悲しい」
彼はケリを付けるために別のことを試みた。彼はのこぎりを握り、左手首の皮膚を切った。静脈から血が吹き出した。オッターは、傷が固まる前に1リットルの血を失ったと思った。その夜中、彼はずっと震えいた。翌朝、彼は釣り糸で手首を縫った。
オッターの日記の日時が信じられるなら、彼の絶望は数週間続いた。彼の説明では2月までは食料が保つ。「数日間、水を維持しようとするが、私にはできないことを知っている」と彼は書いた。雪は彼を取り囲んでいたが、彼は衰弱して立ち上がれなかったので、雪を集められなかった。それで、彼はそこに横たわり、ほとんど動かなかった。雪は彼の周りに積もり続けた。
最後の数日、おそらく数時間で、彼は自分の人生を日記にまとめた。
「私は決してどこにも溶け込めない!4歳からでないが、今までだ。ハイキング・コミュニティ以外はどこにもない」
「5年生の時のいじめはひどく、人生に傷を残した。...言葉にできないほど押しつぶされた。...とても不幸だったので、私たちは森から離れた。...私は逃げ出してヒッチハイクした。私は別の世界を発見し、それが人生を永遠に変えた。16歳で初めてマリファナをやったが、最高だった。初めて現実の痛みを免れた。西のPCTにハイキングに行った!初めてセックスした。」「私は脱水症状で死にそうで、水がない。とても激しく、とても悲しい...。私は無力で、衰弱している。...袋の中に横たわっているだけで50日になった...失われた日々。一日中、食べ物の夢。ああ、後悔はあるか。」
..............................
2016年4月7日、イアン“ ダートウォルフ(DirtWolf)” クロムビーは、CDTでメキシコ国境から北に向かった。ニューメキシコ砂漠は暑くて乾燥していた。「景色のほかに、今日のハイライトは所々のトレイル・エンジェルの水だった」と彼は回想する。ほとんどのCDT志望者と同様に、クロムビーはベテランのハイカーで、すでにPCTを完了していた。出発してからほぼ1か月後、クロムビーは標高わずか2,000フィートで雪に遭遇した。ラグニタスの南30マイルだった。彼は泥道をとぼとぼと歩いた。「濡れた足のケアは止めた」と彼は言う。オッターがチャマを離れてから6か月後の5月10日、クロムビーは夜明け前に目を覚まし、固まった雪の上をラグニタス・キャンプ場に行った。
トイレの入り口は、雪解けで残った乾燥したほこりと散らばった松葉で覆われていた。自家製のスキーの正面は釣り合っていなかった。クロムビーは、ハイカーがそれらを前年に作ったかのか、疑問に思った。「それからドアが見えた」と彼は言う。塗装面に「警告」という言葉が刻まれていた。色あせた紙のメモがドアに貼り付けられていた。
トイレのなかに閉じ込められた死体がある。
それは
スティーブン・オルシャンスキー、別名
オッターだ。
当局に連絡してほしい
すぐにだ
本当だ
サンキュー
クロムビーは、北上する途上、すべてのトレイル・タウンで、オッターの顔を印刷したチラシを見ていた。彼はトイレのドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。彼はニュースを届けるために北に向かって急いだ。「私は、最初、これは誰かに伝える必要があると本能的に感じた。オッターだ。」雪の中を歩き続けた。数日後、彼はチャマに着き、州の警察に連絡した。
彼らには厳しい任務があった。春は山には人がいない。スノー・モービルは裏庭に放置されている。小川は溢れていて釣りはできない。倒れた木は深く斜めになり、漂っている。「フォークナー将校はパトロール隊とその場所に行こうとしたが、道路が大きな雪で塞がれているため、キャンプ場に到達できなかった」と警察のレポートにある。フォークナーは援軍を求め、たくさんの部隊が、犯罪捜査官と森林局のレンジャーと一緒に、全地形用車両を集めた。それでも雪が非常に深く、ツボ足で、ラグニタスに行く必要があった。そして、やっとトイレのドアをこじ開けることができた。
内部では、オッターの死体はひどく腐敗していた。5月15日の午後、彼はようやく林道87号を下った。そこは彼がスキーで高速道路285号に行こうとした場所だ。彼の遺体はエスパノラの遺体安置所に運ばれ、火葬された。
その月の後半、オッターのトレイルの友人たちはニューメキシコに集まり、彼の要求に応じてお祝いをした。6月2日、彼の家族と古い友人たちは、ATがマサチューセッツ州のグレイロック山に至る東の場所に集まり、ビーバーズのために静かな記念式を開催した。ビーバーズの多くは彼を知っていた。彼が要求したように、私は彼らに加わった。彼の「最後の意志」は、彼の日記にラベルを付けたように、トイレの手すりに結び付けられていた。州警察はそれをオッターの兄弟ニールに渡し、彼はそれを書き起こして、私に送った。
私はそれを読んで、SARの専門家、彼の家族、彼のトレイルの友人、そしてフロリダで古い仲間たちと話をして、答えを探して2年以上費やした。オッターの死を非難するのは易しい。私には、彼が姿を消す2日前の彼からの電話の1つが気にかかっていた。オッターはこれまで以上にマリファナを吸っていた。「ハイになっちまって、チャマのマリファナなど、とにかく続けた」と彼は日記に書いた。
私が話したSARの専門家の1人は、飛行機はウィルダネスでの捜索には効果がなく、最初の捜索はほとんどすぐに偽の目撃によって取り消されたと言った。リン・ユーディクとアート・ローアから激しい抗議があったが、ボブ・ロジャースは町での確認された目撃例がなくてもウィルダネスの捜索を中断した。そして、ロジャースが森林局にラグニタスの近くで地上の捜索を行えるか尋ねたが、最終的に天候のためにそれが不可能になった。
ベン・ウィッティングは、森林局が捜索を試みたなら彼を見つけることができたと考える。ラグニタスのキャンプ場があった地域に隣接する国有林地区には、スノー・モービルを備えたレンジャーがいたが、彼らは捜索担当者ではなかった。「彼らは悪い奴だ!」と、チャマで彼を訪ねたとき、ウィッティングは言った。そういう行政的区分を越えて、すばやく捜索できたかもしれない。
トロイ・チャンバーズは最も近い所に住んでいて、地形に詳しかった。彼は誰かに請われれば数時間以内にオッターを見つけられただろう。しかし、チャンバースは、ボブ・ロジャースの管轄外にあるコロラド州の州境にいた。
私は彼はもう死んでいると思ったので、あまりに早く友人を諦めてしまった。オッターが高い山のピークを避けると言っていた。それで、私は雪について考えたことはなかった。代わりに、私は彼がほこりだらけの岩盤の端を歩いて、ボロボロの砂岩が崩れ落ちるのを想像した。ナミエ・バシレはまた、彼が滑って落ちたと思った。他の人は雪崩だと思った。リン・ユーディクは、これら様々な要因が致命的な結果になることを恐れていた。
もっとできたと思うのは簡単だ。おそらく何かできるのは私だけだった。ダスティン・パートリッジはスキーがそれほど上手ではなかった。ベン・ウィッティングにはインフルエンザにかかっていた。東方のオッターの家族と友人は、ウィルダネスを歩く方法を知らなかった。
こういう話はすべて何ヶ月も後のことだ。それより私は、オッターが彼の生涯の終わりに、死やピザのことを乗り越えて、言葉を残していることを好む。1月のある穏やかな朝、彼は借りた部屋のドアに寄りかかって開け、寝袋を外に半分ほど滑らせて、日光を頬に当てて、暖かくして寝ていた。私は、彼が最初にアパラチアン・トレイルを若々しく歩いた時から、彼がどれだけの旅をしていたかを想像する。彼の魅力は彼を理解することだ。ピザが保証されず、死が近い日でも、我々のどんな部屋も借り物で、アウトドアへの踏み出すことは永遠への道に繋がる。
オッターは、彼の側では、執着心が著しく欠けていた。「人生はハイキングだ」と彼はブロの終わりに何時も書いていた。彼のハイキングは終わった。彼の日記は、生涯に渡ってウィルダネスで自立の習慣に支えられていて、彼の行動と怠慢は、ほとんどオッター自身の責任である。「これは、私の人生の、自分の行為の結果だ」と彼は書いた。彼は他人を非難したりしないし、彼らがもっとなすべきだったと望んでいない。代わりに、日誌の最後で、彼は単に記憶していて欲しいと書いた。彼は、友人に、自分が死んだ時のことではなく、生きていた時のことを思い出して欲しいと書いた。
「これは、スティーブン・ビーバーズ、
善良な人間、善良な魂、良き友人のための
ものです。彼が今ここにいればいいのにと思う。」


OUTSIDEONLINE.COM
Pinned down and running out of food, Stephen "Otter" Olshansky scraped his way to a campground latrine, holed up inside, and prayed for a miracle.

伊豆縦走 Izu hiking 2019.12.22-27、寝場所と水場情報, revised 2024.3.20.

伊豆縦走路に、きちんとしたキャンプ場はないので、LNT(証拠隠滅型)キャンプを行うこと。トイレは猫式トイレとし、携帯お尻洗浄器を用いて、なるべくトイレットペーパーを使わないこと。水は動物の糞便やゴミが混じっているので必ず浄水器を使用のこと。なお、箒山から万二郎岳へはトレイルではなく、残置テープしかないし、急勾配なので、山の初心者は歩いてはいけない。


12/22 (日)
新幹線で伊豆に向かう。午後に雨の予報なので、一本早めに出かけた。伊豆大川着 12:13. 12:30出発、曇り。展望台13:10、700m付近の道端、テント設営、15:30。雨が降り、風が出てきた。見晴らしの良い場所は諦めた。そのうち、烈風になった。地面には砂利が多く、ステイクが十分効かず、二本打ち直し、二本は寝ている間に緩んだ。気温が相当に下がり、テント内4度。

寝場所と水場 








寝場所は赤三角形。ここは標高700mほど。道端だが、死後1~2ヵ月の鹿が道の真ん中に転がっていた。交通量ゼロの林道。小川が北100mほどの場所にある。

12/23(月)
雨は6時頃止む。猛烈な風雨でテントがぐしょ濡れになった。重い。8:10出発、箒山林道が整備され、きれいになっていた。頂上近くは雪。

箒山山頂からの万二郎岳


万二郎岳へはトレイルがなく、テープのみ。したがって、ここを初めて歩く人はGPS持参が望ましい。湿った新雪で急勾配で時間を取られる。万二郎岳13:30。10cmばかりの積雪。マップケースが千切れて無くなったのに気づいた。とても引き返せないし、地図は頭に入っているし、GPSもあるし、で先に進む。

                                            万三郎岳、気温は0度

万三郎岳への途中で高齢者夫婦に会い、写真を撮って貰う。奧さんに「日本の方でないでしょう。...だって生足だし」と言われた。ゴルフ場の4時のバスに乗るという。たぶん、無理だったと思う。ぐずぐずの雪で歩きにくい。

小岳まで雪が深くなったが、コースタイム程度。それで、戸塚峠まで行くことにした。雪があるので、どこでもテント泊可能。17時、戸塚峠、テントを張り、雪を集めて水を作る。Primetechの高能率ストーブなので、非常に早くできた。



戸塚峠、水がないので、通常はここではキャンプできない。


12/24

風がコンスタントに吹いていたが、強くなく、お陰でテントが乾いた。テント内1.5度。身体が慣れたのか、あまり寒く感じなかった。

寝場所と水場


白田峠にテントを張り、水を汲みに行くのがよい。水は水色のサークルの場所にある。割に枯れない。運が良ければ白田峠から少し下るとわき水がある(枯れやすい)。



白田峠手前300mほどの水場、割に枯れない。


8時過ぎに出発、白田峠9時、八丁池、10時半、ここは5-6年前にキャンプ禁止になった。看板だけが2回新品になったが、東屋は壊されたまま。地図の特別保護区のみがキャンプ禁止なので、すなわち、湖から400mほど離れればキャンプ可能。

八丁池



水場(追加)--これは2020年8月、枯れた

八丁池から30分くらい下るとコマド歩道(通行止め)分岐がある。小川の跡があるが、水がないことが多い。少し下ってトレイルではなく、分岐した踏み跡の傍に直径20cmほどの水たまりがある。落ち葉で覆われ、普通の人には飲み水には見えないが、わき水である。二回確認した。浄水器を使えば美味しく飲める。少し離れた所が平らなのでテントが張れる。


小さな水たまり、これは枯れてしまった。
水場近くから撮したテント

12時、日当たりの良い場所でランチ、トレイルがメインテナンスされていて、歩きやすくなっていた。二本松峠15:30着、水汲み往復で、テント設営は16:00。水場はいくつかあるが、二本松峠手前500mの川が確実。

二本松峠。この東屋は取り壊されて更地になった。

寝場所と水場

比較的確実な水場、二本松峠手前500mほど



12/25
8:20 出発、10:00みかさ山、ここからトレイルは地図と異なり、尾根を下って巻いていく。12時、猫越岳手前でランチ。


猫越岳頂上下の池、この近くでもテント泊可能。


テント泊予定の風早峠に行く。道路の傍で良くない。北に400m歩くと、道から離れて、しかも小川がある場所があり、すかさずテント設営。15時。ただ、ドコモの電波は届かない。inReachでメール発信。よく寝て、よく食べた。

風早峠の北

水場


12/26
5時に起き、7時出発、もう一泊分の食料はあるが、戸田峠まで歩けるので、最終日とする。奥様に宿と帰りのバスの変更をお願いした。時間はあるので、トレイルを歩く。今日の午後は崩れる予定だが、富士山がきれいに見えた。魂(こん)の山でも同じだった。


達磨山で小雨になった。幸い、大した雨でなく、下ると止んだ。そのままトレイルを北上。15:20分、戸田峠着。ところが、バスが17:21しかない。困って、とりあえず、達磨山レストハウスまで歩く。休みに入っていて、人も車もいない。少しヒッチハイクを試みるが、止まる車なし。仕事なのか、ビュンビュンと走りくだる車ばかり。仕方ないので、17時23分のバスまで待った。乗り継ぎは順調で、沼津駅19時着。安宿の三交インに辿り着いた。

寝場所と水場


地図の一番下、県道に出ると、残土処理の跡か、意味不明の駐車場があり、テント泊可能、低い場所から水が湧いている。この他、少し急勾配の崖を下りると水がある。また、土肥峠から林道を少し下ると水がある。北上しつつ、少し谷を見ると、所々に水がある。船橋峠の休憩所の近くには雨水の排水路があり、たまり水がある。そこで、この辺りのトレイルの近くでテント泊が可能である。



土肥展望台駐車場へ500mくらい。側溝に小川が流れ込んでいる。枯れたのを見たことがない。展望台の隅にテントも張れる。この次は戸田峠から300mくらい南の県道沿いに小川があり、利用可能。戸田峠の駐車場でテント泊も可能。



駿河湾まで歩く場合

戸田峠の南、道沿いに側溝があり、川の始まりがあるので、そこから水は汲める。その後はトンネルをくぐり、舗装道路を歩くと、右手に側溝と溜水がある。汲みにくい場合も多いので、沼津市民の森への降りる道から通行禁止のロープを超えて少し下ると、川の始まりがある。溜水があるので、そこから比較的きれいな水が汲める。市民の森にキャンプ場はあるが、予約がないと泊まれない。








詳しい写真はここ。

2019年11月22日金曜日

John Muir Trail Guide ジョン・ミューア・トレイル・ガイド




ジョン・ミューア・トレイル(John Muir Trail: JMT)は、カリフォルニア州のシェラネバダ山脈にあり、ヨセミテ・ヴァレイからマウント・ウィットニーまで続くトレイルで、総延長は339km(211mile)である。アメリカのナンバー・ワン・トレイルであると評価され、世界中のハイカーの聖地といえる。

アメリカの国立公園をキャンプしながら歩くには、パーミットという許可証が不可欠である。ところが、ハイキングの方法やパーミットの取り方を詳しく紹介した書籍としては筆者の「米国ハイキング大全」(エイ出版、2018年)くらいしかない。

ただ、写真は小さく印刷され、ほとんどモノクロで、渡渉回避ルートやサイドトリップ・ルートのイラストは、十分詳しく表現できなかった。書籍の関係でその後の変化も反映されていない。ジョン・ミューア・トレイルのイメージを正しく把握するには不十分な結果であった。

本書は上記書籍のジョン・ミューア・トレイル部分を取り出し、多くのカラー写真と入れ替え、追加記述したものである。地名の由来も所々に挿入しておいた。アメリカの歴史が垣間見れるだろう。電子書籍という関係で、カラー写真の枚数、ページ数の制約がなくなった。ぜひ、タブレットで読んで欲しい。

また、ジョン・ミューア・トレイル全域を含む5万分の1地形図(CalTop)を収録した。さらに、渡渉回避ルートとサイドトリップ・ルートは1万2千分の1などの地形図(CalTop)として別枠で収録した。これは筆者がCalTopの制作者の許可を得て、ルートなどを書き加えたものである。

自己出版です。AmazonのKindle版のみです。11月23日(土曜日)から5日間だけ、無料で入手できます。スマホかタブレットにKindleアプリを入れれば読めます。A4プリントで200枚ほどの分量だよ。

リンクはここ



2019年11月7日木曜日

奥秩父から奥多摩縦走 2019.10.29-11.5

2015年に一度行ったが、天候悪化と転倒でトレッキングポールを折り、雲取山から鴨沢に下山して終了。今回は奥多摩駅まで行くつもりで、秋晴れが続く日を待った。また、距離を欲張らず、早めにテントを張ることにした。時間がないので、記録を簡単にまとめる。





写真はここ
https://photos.app.goo.gl/WBsQsDnEXVzpmo3bA

10/29 秋晴れが続く見込みで、小雨の中、信濃川上に向かう。ところが、列車のアナウンスで小梅から行かない、代行運転という。小梅で下りるが2時間待ち、タクシーに料金を聞くと、信濃川上まで8000円くらいという。お金に自信がないので、即、思いとどまった。その運ちゃん、代行運転の運転手でもあり、一時間すれば大型タクシーが来るから、乗ればよい、俺が運転手だよと教えてくれる。乗り込んだのは学生一人と自分一人のみ。川上駅に着くが、もちろん、バスを一時間待たないといけない。本当は駅で寝て、もう一泊増やすべきだった。川端下は17:30ヘッドランプをだし、しばらく歩くが、霧で先があまり見えない。キャンプ場まで歩く気になれず、水を見つけたので、道端の空き地にテント設営、まあビバーク泊。


10/30 非常によく寝て、5時起き、6時発。アプローチが長い。廻り目平キャンプ場、割によい雰囲気だった。林道はずっと奥まで続き、テント泊好適地が一杯、登山口に着いたのは9:40。登山道をGPSでチェックすると、尾根一つ分、道が西にずれている。この辺り、古い道が地図に掲載され、訂正されていないようだ。金峰山小屋近くから地図通りの道になる。金峰山13:50着。遅くなったしまった。14:10下山開始、14:50左脚痙攣、ちょっと休憩すると治まった。5時過ぎると林の中は暗い。ヘッドランプを出す。大弛峠、5:40分着。テントを張ってからお金を払いに行くと、小屋の主がやたら機嫌が悪い。登山届け出していないというと、やたら起こりだす。こちらはそれなりに連絡しながら登っているし、現在位置もinReachで通信しながら行動しているのに、頭ごなし。次回からは川の水を道端で寝ることにした。800円寄付したのにばかばかしい。なお、テント泊はもう一名のみ


10/31 甲武信ヶ岳までは長いし、倒木も多い。4時に起きて、6時発。前国師7時、国師ヶ岳で写真を撮して貰う。縦走路は以前より少し荒れて、倒木多め。10時2224mのピーク、甲武信ヶ岳のキャンプサイト16時着、代金1000円と水200円と、やたら値段が高い。


11/1 5時起き、6時半出発。リチウムイオン電池の出力端子が壊れたので、スマホの充電ができない。節約モードとする。ヘッドランプもリチウムなので、太陽電池パネルと直結、このヘッドランプ電源低下すると、突然、暗くなる。ライトの予備がないと非常に危険。破風山9:30、雁坂峠12:20ランチとしてのんびり。男女二人。写真を撮って貰う。水晶山13:50、雁峠(がんとうげ)16:00、水を6L汲んで、浄水用意。バックパックを担いで大汗をかいて通る人。大弛から来たという。すごい。トイレと水のない場所では寝たくないと、彼は先に行く。それでたった一人のテント泊となった。普通の人は水道とトイレが整備された場所でないとテントは張れないらしい。


11/2 5時起き、6:40出発、10時、唐松尾山。途中の岩場3箇所ほどが急勾配。山の神土でランチ、15:30、飛龍の水場に無理矢理テント設営。斜めでぼこぼこなので、下に食料などの袋を敷いてダウンマットで安眠。4時過ぎに一人通りかかる。ちょっとやばい時間帯。三条の湯までは2時間はかかるかなと教える。心細そうだった。


11/3 11時間は寝て、5時に起きて、7時出発、北天のタルを過ぎると、道が細くなり、熊笹で覆われている。だんだん道の状態が悪くなる。昔からの倒木があり、急傾斜面を回り込むのが大変。熊の踏み跡と消えかけのトレイルが何度も交差。ウンコも二つ見つけた。11時半、三条ダルミ。ゆっくりとランチ。雲取山荘キャンプ場、2時。続々とキャンパーが来て満員。後で聞くと、祭日だった。一番高い位置にテント。


11/4 5時半起き、7:30出発。夜に小雨、雲が多く、富士山は見えない。雲取山から少し下りた時に少しだけ見えた。つまらないので、7つ岩山を除き、すべて巻き道。12時半、鷹ノ巣山避難小屋。コーヒーを湧かし、エナジーバー一本でランチ。お腹減っていないので。誰もいないので14時テント設営。そのうちにテントは2名来た。誰一人、避難小屋では寝ない。


11/5 5時起きて、7時40分出発。天気は完全回復。鷹ノ巣山から何枚も写真を撮す。結構、満足した。そのまま、わりとすんなりと下山。奥多摩は12時半。コンビニでラーメンとお菓子を買って、自分で温めてラーメン作成、のんびりしていたが、立川までの列車が13時57分に気づいて、慌てて整理して駆けつける。立川駅15時、立川アーバンアネックスホテル別館にチェックイン。ミニキッチンがあって、なかなか面白い宿。次回からここを定宿に決定。

1.リチウムイオンバッテリの出力端子破損で、携帯電話の充電ができなかった。対策を練る必要がある。--->ケーブルの抜き差しは原則として行わないようにする。

2.リチウムイオンバッテリのヘッドランプを持っていったが、電池容量がなくなると、途端に真っ暗になる。非常にやばい。常に満充電にするか、乾電池式に戻すか、しばらく使ってから考える。

3.急傾斜面を無理に脚を踏ん張って右脚の膝周りの炎症が酷くなった。しばらくランニングできない。一応、安全第一で歩いたけど。

2019年8月7日水曜日

Long Slow Distance

ジョー・ヘンダーソン「LSD -人に優しいトレーニング」


日本語訳が無料公開された。読んだのでメモをしておく。LSDは長距離をゆっくりと走ることだが、著者は「単なるトレーニング法」ではなく、「スポーツというものの本質をどうとらえるかという問題なのだ」という。ランニングの世界ではスピード信奉が過大評価されている。「スピード・トレーニングが危険を伴うのに比べて、スタミナ重視のトレーニングは安全だし、心地よい方法」である。

「フルマラソンを1マイル5分4秒ペースで走りきったアンビー・バーフットは、普段の練習ではこれよりも1マイル2分遅いペースで走っていた」し、最高のウルトラランナーだったアーサー・ニュートンも「可能な限り頻繁に練習」し、「疲労困憊するまで走ってはならない」と著書に書いていた。スウェーデンで生み出されたファルトレック(トレイルランニングに該当)もニュートン式のゆっくりで単純な方法への回帰である。「ランニングを短期的で投機的な賭けとしてみるのではなく、長期的な視点でみることによって、ランニングは楽しく精神的な満足をもたらすものになる。」この辺りが著者の主張の中心だろう。次にLSDを実践したランナーたちのエピソード集が続く。

アンビー・バーフット(1968年ボストン・マラソン覇者) 山の中にこもって悪路を走り回っていた。彼が人の前に姿を現すのは大学の講義を受ける時と体育館のシャワーを浴びる時だけ。福岡のマラソンでは2時間14分18秒8の記録も出している。この時の練習ペースは1マイル7分と遅い。週に120~150マイルを走っていた。

ボブ・ディンズ(1969年ボストンマラソン6位) 高校生の時の初マラソンは3時間21分。大学に入り、ゆっくり走の影響を受け、練習は1マイル7分半から8分ほどで一日2時間、週末には3~4時間走った、マラソン記録は2時間25分に達した。一度、レースに出ると、次のレースでは記録が短縮される。

トム・オスラー(1965年25km, 1967年30km、米国国内選手権1位) 長めのインターバルトレーニングで故障した。それ以来の練習は一週間に70~80マイル、1マイル6分半から7分半のペース、これを「基礎トレーニング」と呼ぶ。レースの6週間前には「研ぎ澄まし」と呼び、スピード走を少し入れる。

エド・ウィンロウ(1966年25km, 30km、米国国内選手権1位)  大学でLDSのコーチングを広めた。彼の練習は1マイル7分~8分のペースで、一週間に60~70マイルだけ。それでも9マイル(15km)を1マイル5分(キロ3.1分)で走った。

ジェフ・ルート(20km 1時間11分、30km 1時間50分28秒、マラソン2時間50分36秒) 練習は1マイル7分~8分ペースで週80~112km。体重過多で長い距離は走れなかった。LSDに変えて足の故障がなくなり、減量できた。

ジョー・ヘンダーソン(ご本人、20km 1時間12分12秒、30km 1時間55分00秒、マラソン2時間49分48秒) 記録が低迷し、高望みは止めた。「苦痛のない練習でランニングの楽しさ」を取り戻し、「マラソンを走りきる耐久力を養う」ことを目標とした。「2年半のLSDトレーニングをした後では、2時間04分」と進歩した。

最後はLSDの進め方。先入観を捨てて、まずゆっくりと走ってみること。楽しくやる方がよい。LSDでトレーニングするとスピードが失われるという意見があるが、1、2度レースに出ると、スピードは戻る。LSDは走りながら普通に会話ができるペースが良い。そして継続的にトレーニングすると、ステップアップしていく。

論文というよりエッセイだが、趣旨はだいたい上記の通り。ただ、LSDでは怪我が少ないとか、トレーニング効果が大きいなどは、逸話的証拠に留まっていて、科学的な話ではない。PubMedにLong Slow DistanceとかLow-intensity trainingというキーワードを入れて、Comparative study(比較研究)にチェックマークを入れて、少しだけ調べて見た。

review article
Hydren & Cohen 2015 Current Scientific Evidence for a Polarized Cardiovascular Endurance Training Model.
 伝統的な閾値モデル(高強度・練習量大のトレーニング)は実際のレースでの効果は少なく、オーバー・トレーニングの結果、怪我をしたり、心理的に燃え尽きてしまいがちである。分極化モデルでは、「低強度」(≤13)と高強度(>=17)の二極化のトレーニングを行い、「中強度」(14-16)やレースペース(6-20)でのトレーニングはわずかな時間とする。7つの研究によると、伝統的な閾値モデル(14-16,6-20, ~55%Vo2max)と比較して、分極化トレーニングでは有酸素運動能力が増加し、効果量も大きい。分極化モデルの効果量は0.85~2.80と非常に大きいが、閾値モデルでは-0.42~2.16と効果量が大きい人もいるが、マイナスの人もいる。

review article
Laursen 2010 Training for intense exercise performance: high-intensity or high-volume training? 分極化トレーニングモデルの方がよいというreview

experimental article
Helgerud, et al. 2007 Aerobic high-intensity intervals improve VO2max more than moderate training. Vo2maxを高めるには高強度のインターバル・トレーニングがよい。
Gibala & Jones 2012 Physiological and performance adaptations to high-intensity interval training   週に一度強いトレーニングをすると、Vo2maxなどが向上する。

科学的検討の結果は「分極化トレーニング」が良さそうである。日本のランナーの人は知っているのだろうか。ちょっと心配だな。




2019年8月1日木曜日

旧石器時代ダイエット

Marion Nestle 2000 Paleolithic diets: a sceptical review. Nutrition Bulletin, 25, 43-47. からのメモ。この論文はだいぶ前に読んで放置していたので、再読。

旧石器時代ダイエット

旧石器時代ダイエットは摂取カロリー比でタンパク質37%、炭水化物41%、脂質22%であるはずと主張されている。これは現在の推奨されるダイエットとははっきりと異なっている。

エビデンス


ゴリラ、オランウータン、チンパンジーなどの類人猿の食生活は重さで15%までが動物性食物で、大部分は植物性の食物。類人猿は、昆虫、卵、甲殻類を食べる。

初期の人類は果物や木の葉を食べていたはずで、アイソトープの比13C/12Cや18O/16Oで調べることができる。ホモ・サピエンスは13Cからサバンナの果物、葉、もしくは、葉を食べていた動物を食べていたことが分かる。ネアンデルタールは肉も食べていた。ただ、別の仮説では地下のイモを食べていたといい、これは25,000年前まで続いた。

旧石器時代の遺跡では動物の骨が見つかるが、植物よりもよく保存されるために、動物性食物の過大評価が起こってしまう。旧石器時代の平均余命はは25年と推定されているので、旧石器時代のダイエットは理想からはほど遠い。

現在の狩猟採集民族の調査では平均余命は25~30年で、幼児期の死亡率が40~50%に上る。カラハリ砂漠の民族の調査では150種の植物、100種の動物を食べているが、重量比で80%は植物性の食物であった。エビデンスの多くは狩猟採集民族でも植物が豊富な地域に住んでいれば、植物性の食物が主体であることを示している。

北極圏のイヌイットが例外で、陸上の哺乳類と魚が主な食料で80~100%は動物性食物とされる。ビタミンCは植物か生肉にしか含まれていないので、生肉を食べていると推測された。ただ、生育期間は短いが、1000種を越える植物があり、550種は食料としている。冬期は保存した植物を食べているようだ。平均余命などのデータはない。

結論

旧石器時代のダイエットはエビデンスに基づくと大部分は植物性の食物に依存している。慢性的な疾患を避けるには、果物、野菜、穀物の摂取量を増やし、動物性食物を減らした方がよい。そして、我が祖先、狩猟民族のように、活発に身体を動かすことである。

2019年7月23日火曜日

The 2018 Lake Louise Acute Mountain Sickness Score

レイク・ルイーズ・急性高山病評価尺度2018年版


が改訂された。元論文はここ

1993年以降、レイク・ルイーズ・急性高山病評価尺度は、急性高山病の症状評価で世界的に研究で用いられてきた。日本でも日本登山医学会編集「登山の医学ハンドブック」(杏林書院,2009)に紹介されていたほか、筆者も「高山病をどう回避するか」(富山大学人間発達科学部紀要, 2017)に記載した。

長い間、議論になっていたのは、診断基準に睡眠障害を含めるか否かである。睡眠障害は頭痛・消化器症状・疲労・めまいなどの症状と異なったクラスターであった。複数の因子分析的研究の結果、このことが確認された。そこで睡眠障害を「低酸素症」として、これを評価尺度から切り離し、少し詳細化されている。内容を次に示す。

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頭痛
  0 ... なし
  1 … 弱い頭痛
  2 ... かなりの頭痛
  3 ... 頭痛が酷くて何もできない
消化器症状
  0 ... 食欲に問題なし
  1 … 食欲不振、もしくは、吐き気
  2 ... かなりの食欲不振、もしくは、かなりの嘔吐
  3 ... ひどい食欲不振、もしくは、ひどい嘔吐で、何もできない
疲労感/脱力感
  0 ... 疲れていないし、弱ってもいない
  1 … 少し疲れていて、弱っている
  2 ... かなり疲れていて、弱ってもいる
  3 ... ひどく疲れていて、弱り切って、何もできない
めまい感/もうろう感
  0 ... めまい感やもうろう感はない
  1 … 弱いめまい感、もしくは、もうろう感がある
  2 ... かなりのめまい感、もしくは、かなりのもうろう感がある
  3 ... めまい感やもうろう感がひどくて、何もできない
----------------------------------------------------------------
急性高山病の診断は、高所へ移動してから6時間以内に症状が現れた場合に行い、症状に頭痛が含まれ、かつ、消化器症状、疲労感/脱力感、めまい感/もうろう感 のうち二つの症状が含まれるとする。そして、上記の評価尺度の合計点で、3 ~5点は軽症、6~9点は中等症、10~12点は重症と診断する。

この尺度は研究者向きのもので、臨床家、山岳ガイド、素人が急性高山病を診断するために設計されたものではない。臨床家は症状に頭痛がなくても、この尺度で合計点が3点以上なら急性高山病として取り扱っても構わない。

研究者が急性高山病の全体的な症状を評価するときは次の尺度を用いる。
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急性高山病臨床機能得点
 急性高山病の症状があるとして、それはあなたの活動を全体としてどの程度妨害していますか。
  0 ... ぜんぜん
  1 … 症状はあるが、自分の活動や予定に影響はない
  2 ... 症状のために、登山を止めざるをえず、自力で下山するほかない
  3 ... 低地への緊急搬送が必要
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2019年7月20日土曜日

Wilderness Medical Societyの高山病予防ガイドライン2019年のupdateの一部紹介

Wilderness Medical Society Practice Guidelines for the Prevention and Treatment of Acute Altitude Illness: 2019 Update の一部紹介


高山病をどう回避するか  

この論文は2017年に富山大学人間発達科学部紀要に掲載した。PubMedで論文検索をして、2016年時点の研究までを含めたレビューになっている。その後の進展としてはレイク・ルイーズAMS自己評価尺度の改訂ほか、いくつもの研究論文が現れている。Wilderness Medical Societyの論文のニュアンスも変化している。高所脳浮腫(HACE: high altitude cerebral edema), 高所肺水腫(HAPE: high altitude pulmonary edema)の治療法が詳しいのだが、急性高山病(AMS: acute mountain sickness)の予防や治療を中心に紹介する。

AMSとHACEの予防 

ゆっくりと登る  これが最善だが、ランダム化比較試験はない。二つの研究によると、2,200m~3,000mに6~7日滞在すると、4,300mに登っても急性高山病のリスクが小さいという。なお、2010年のガイドラインは「標高2,500~2,800メーターへの移動に二日以上かけて、その後、就寝時の標高の上昇を一日に500メーター以下とし、標高の上昇1,000メーターに付き、休養日を一日設ける」である。

アセタゾラミド(商品名:ダイアモックス)AMSのリスクが高い人が高所へ行く場合、強く推奨される。AMSとHACEの予防に有効。アセタゾラミドは高所順応を促進する。運動能力を阻害することはあるが、影響はわずかである。投与量は125mg/12hである。子供では2.5mg/kg/12h。

デキサメタゾン デキサメタゾンは高所順応を促進しないが、AMSとHACEの予防に有効である。投与量は2mg/6hか4mg/12h。子供には使用不可。

イブプロフィン AMSの予防に有効。投与量は600mg/8hである。イブプロフィンの研究が蓄積されたので、はっきり書かれるようになった。なお、これは非ピリン系の鎮痛剤なので、エビデンスはないが、ロキソニンでも効くようだ。

効かない薬物  吸入ブデソニド(喘息治療薬)、ギンコ(イチョウの葉のエキス)のサプリ、アセトアミノフェンは推奨されない。

低圧室と常圧低酸素室 

低圧室や常圧低酸素室が高度順応への準備手段として用いられる。多くの研究があるが結果は一貫しない。低圧室の条件が異なるためであろう。一般的に低圧室での滞在が数時間以内の場合は、高所順応を促進しない。一日に8時間、もしくは、7日を越える場合は、利点がある。もちろん、低圧室の方が常圧低酸素室より高所順応には望ましい。

低酸素テント クライマーがよく用いるが、身体能力を改善するとか、登頂の確率を上昇させるというデータはない。睡眠の質が低下し、長期的には遠征中の身体能力が低下するという欠点がある。

その他

コカの葉を咬んでもエキスを飲んでもAMSの予防に効くという研究はない。また、短期間の酸素吸入に関する研究はなく、一缶2~10Lの酸素吸入が高山病の予防や治療に効果があるとは考えられない。つまり、富士山など利用されている酸素缶には利点がない。

AMSとHACEの治療 

高度を下げるのがベストの治療法である。一般的に300~1,000m下げると症状は消失する。高度を下げられないが、酸素を供給できる場合はSpO2>90%となるまで供給する。持ち運べる高圧室があれば治療は可能であるが、高圧室から出すと症状が再発する。薬物では、アセタゾラミド(250mg/12h)がAMSに用いられる。デキサメタゾンはAMSの治療に効果的で、4mg/6h、子供には0.15mg/kg/6hである。HACEにも用いられる。アセトアミノフェンとイブプロフィンは頭痛に効くが、重篤なAMSとHACEに効くか不明である。


2019年7月16日火曜日

Spring Chicken




やっと読んで内容をまとめた。良い本だったようだ。
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Spring Chicken

訳語は難しいが、サブタイトルのstay young forever(永遠に若く)という意味だろう。Business Insiderに紹介記事があり、Biosphereのことが紹介されていた。それで、Biosphereの解説書かと思ったが、アンチエイジングに関する啓蒙書だった。

1章と2章はエピソードとエイジングの話で、あまり印象に残っていない。3章から成長ホルモンの話題になる。1980年代初め、ホルモンが若さの秘密だと考えられ、販売する会社がいくつも現れた。ただ、研究が進むと、ホルモンは加齢を加速するようだった。女性ホルモンは癌化を促進するし、男性ホルモンは心筋梗塞を引き起こす。1997年には成長ホルモンがアンチエイジングの妙薬として脚光を浴びたが、やはり期待とは逆に加齢を促進することがわかった。

4章は加齢の長期縦断研究の紹介で、運動能力が高く、血圧、LDLコレステロール、BMIが低い人が長生きするが、逆の人は老人性痴呆を発症する危険が大きい。5章は100歳以上長寿者の話。長寿者は素晴らしい完全な遺伝子を持っているのではなく、高齢者特有の病気に対する対抗遺伝子を持っているのではないか。6章は問題の中心と称して血管やコレステロールの話。100歳の長寿者はLDLコレステロールが低いということがわかった。一方、HDLコレステロールは高い方が良いようだ。ただ、スタチンでLDLを下げても死亡率を下げることはできない。さらに13万人以上の疫学研究によると、冠状動脈のトラブルがあった人の半数はLDLコレステロールが低かった。コレステロールは生体に不可欠な栄養素である。LDLの数値ではなく、LDLを運ぶタンパク質分子が大きく、数が少ないほど良いという。これがアポBで90以下が望ましいという。一方、アポA-1はコレステロールを除去するタンパク質なので、これは多い方がよい。

7章はハゲの話から始まり、有害な遺伝子の蓄積が加齢の原因ではないかという方向に議論を転換する。8章は細胞に焦点を当てる。正常な細胞では細胞分裂の数に上限があることが1965年に発見され、ヘイフリック限界と呼ばれる。細胞分裂の数を制御するらしい遺伝子配列がテロメアで、これが老化に関係すると言われる。ただ、4500名の大規模疫学研究によると、飲酒や喫煙の要因をコントロールすると、テロメアの長さと死亡率とは関係が無かった。細胞は癌化するか、老齢化するか、どちらかで、老齢化すると慢性的な炎症を起こす。

9章は超肥満と運動の話。フィルはBMIが45で腹回りは身長に近い。糖尿病も患っていた。内臓脂肪はレプチンを少ししか分泌しないので、食欲は抑えられない。内臓や血管と密接に融合しているので、手術で除去するのは難しい。フィルはそういうタイプだった。そこで、ジムに行くほかなかった。また、フライした食べ物やファスト・フード、甘いソーダなどグリルしたチキンや魚、無塩のアーモンドなどに代えた。4年間でフィルは200パウンド減らし、運動を続け、260パウンド以下にしつつある。

10章はシニア大会の参加者の取材から。ブースはミシガン州立大学の生理学の教授で、競技と加齢の両方に関心を持っている。大学では棒高跳びの選手だった。彼はランニングや自転車を続けていたが、シニア大会の棒高跳びの記録を調べると、自分でもできそうに感じた。引退後の楽しみとして、60歳の時に棒高跳びに復帰した。継続的にトレーニングを続けると、癌など、加齢に伴う病気にかかりにくくなる。最大酸素摂取量VO2Maxの低下も小さくなる。トレーニングは慢性的な炎症を下げて、オートファジーがさかんになり、傷んだ細胞を除去する。端的にはトレーニングは若い遺伝子をオンにし、老いる遺伝子をオフにする。ミトコンドリアの機能不全が老化の原因かもしれない。

11章はカロリー制限の話。ルイジ・コーナロ(Alvise Cornaro, 1484-1566, ベニスの裕福な商人)は30代後半に糖尿病にかかり、医者からライフスタイルを変えるように言われたが、従わなかった。症状が進み、どうにもならなくなったので、食生活を、パンを少しとわずかな肉、魚などと薄いスープを摂るだけにした。彼は健康を取り戻し、「おだやかな生活について」(Discourses on the Sober Life)という本を1558年に出した。この本はダイエットの本としてベストセラーになり、あらゆる言語に翻訳された。この本がカロリー制限すると長生きできるというアイデアの原点で、マッケイは1917年にラットでカロリー制限の実験を行い、長生きすることを実証した。カロリー制限下では代謝系が変化するのかもしれない。1990年代、WalfordらのBiosphere 2という閉じた系で暮らす実験を行ったが、食物生産が足りず、必然的にカロリー制限の人体実験となった。飢え死にしない程度の厳しい結果となり、スタッフはやせ細った。Walfordも破壊的影響を被り、Biosphereから出た時は老けてしまった。その後、酷いうつ病になり、パーキンソン病に類似した症状が現れた。神経系も壊れたようだ。彼は2004年に筋萎縮性側索硬化症で死去した。一方、ウィスコンシ大学ではサルのカロリー制限の実験を1980年代から行い、2009年に発表した。結果は衝撃的で、30%ほどカロリー制限したサルが30%ほど長生きし、外見も脳の組織もはっきりと若かった。ところが、アメリカ国立老化研究所のカロリー制限の研究では逆に太ったサルが長生きし、カロリー制限されたサルは平均以下しか生きられなかった。実は、二つの実験ではエサが大きく異なっていた。ウィスコンシン大学のサルのエサは砂糖が30%含まれた精選された穀物だったが、国立老化研究所のサルのエサは穀物や魚などのホールフーズで、砂糖は5%程度しか含まれていなかった。つまり、ジャンクフードなら厳しくカロリー制限しないと長生きできないが、もっと長生きしたければ地中海食が良いということに過ぎない。

12章は冷水浴の話から。人間の身体は冷たい水に晒されると、大きなストレスを受けるが、褐色脂肪組織を活性化させる働きもある。ただ、酸化反応はフリーラジカルを生む。1960年代に老化のフリーラジカル説が完成した。そこで、抗酸化サプリが大量に消費される時代になった。ところが、23万人にも及ぶ大規模疫学研究の結果、ビタミンA, E, ベータ・カロチンの摂取は死亡リスクを高めることが明らかになった。つまり、老化のフリーラジカル説は単純でエレガントだが、間違っていた。抗酸化サプリはトレーニング効果を台無しにするので、無用ではなく、有害である。つまり抗酸化サプリは活性酸素に対する抵抗力をそいでしまうので、活性酸素のダメージを受けやすくなるようだ。

13章は短期間の断食の話。1950年代にスペインの老人ホームで、半数の入居者に食事を通常の分量を与えたが、半数の入居者には量を半分にしたり、2倍近く与えた。その結果、通常の分量を与えた群の死亡者は13名、一方、与える量を変化させた群の死亡者は6名だった。スペイン語で発表された論文なので、長く注目されなかったが、短期間の断食は細胞レベルで代謝を変えるようだ。カロリー制限を続けるのは容易でないが、短期間の断食ならかなりの人が実行可能である。スクリプス研究所はマウスに8時間のみエサをやるという間歇的な断食条件で飼育したところ、どんなエサをやっても体重は増加しなかった。これは人間では朝食を抜く条件に該当する(最近、朝食を抜くと痩せるという研究が出た)。ヴァルター・ロンゴは癌のマウスを飢えさせた後、抗癌剤を投与する実験を提案した。普通ににエサをやったマウスはすべて死んだが、飢えさせた後に抗癌剤を投与されたマウスは一匹しか死ななかった。人間で行われた実験では二日から五日断食した癌患者に化学療法を行ったパイロット実験がある。何人かの患者では化学療法がよく効いたという。

14章はアルツハイマー病の話。40歳くらいから認知能力が衰えるという。この原因としてベータ・アミロイドが蓄積するという仮説、あるいは、タウ・タンパクの蓄積という仮説がある。運動するとアルツハイマー病が防止できるので、何らかの代謝異常だと思われる。また、手術で二匹の動物の血液が交換できるように接続すると、若い動物の血液が歳取った動物を若返らせる。血液中のGDF11という物質が加齢に関係するかもしれない。15章はエピローグ。

-------ApoB/Aのデータは、University of Iowa Health Careによると、

Apolipoprotein B/A           Male     Female
1/2 Average Risk               0.4      0.3
Twice Average Risk           1.0       0.9
Three Times Average Risk 1.6       1.5

カロリー制限でサルが長生きした話がエサの影響とは知らなかった。朝食を抜くと痩せるというのは、現在、自分の身体で試していて、無理がなく、非常に上手くいくようだ。

2019年3月16日土曜日

The cross country route between Iceberg Lake and Minaret Lake

Iceberg LakeとMinaret Lakeの間

南行きJMTの場合、Shadow Lake手前にEdiza Lakeへの分岐がある。ここを西に行くと、Ediza Lake, Iceberg Lakeに到達する。ここまではトレイルがある。天候が悪かったり、クロスカントリーに自信がない場合は、どちらかの湖でテントを張り、引き返す方がよい。非常にきれいな場所で、それだけの価値がある。

If you are a southbound hiker of JMT, you will find a junction of Ediza Lake before reaching Shadow Lake. If you turn west here, you will reach Ediza Lake and Iceberg Lake. This is a well-maintained trail. When the weather is bad or you have no confidence in the cross country technique. You may pitch your tent near either lake. Both lakes are very beautiful. It is worth to visit.

Iceberg Lake から南はnomaintaned trailとなる。斜面の岩を歩き、Cecile Lakeのoutletに到達する。湖の東側と西側を歩くが、西側しか歩いていない。西側の方が岩が少なく、歩きやすいと思う。

The south side of Iceberg Lake trail is not maintained. You must walk on the boulders and reach the outlet of Cecile Lake. People walk both sides. I had walked the west side. I think the west side is easy to walk because the boulders are rare. 

Cecile Lakeからの下りはoutlet沿いではなく、少し南へ行ってから下ると傾斜が緩い。Minaret Creekに合流すると、トレイルがある。このトレイルは下って行くと、Johnston LakeでJMTと合流する。途中にメドウがいくつかあり、テント泊が可能である。

You may go southward a little from the outlet, then walk down because the slope is not steep. When you reach Minaret Creek, you will find the pack trail, which connects JMT at Johnston Lake. On the way to JMT junction, you can pitch your tent at the meadows

ルートをきちんと選べば、手を使わないで歩けます。それほど難しいルートではありません。ただし、悪天(雷)時、積雪時は危険です。テントサイトは南端に一つあります。Cecile Lakeの南端には大きな岩の断崖があり、西側から東側には歩けません。

It is an easy cross country route. If you find the right way, you don't need to use your hands. But when the weather is bad or there is a large snowpack, avoid this route. There is a small tent site at the south end of the Cecile Lake. There are several huge rocks at the south end of the lake. Then you cannot walk from the west to the east side.





Ediza Lake 

Iceberg Lake


no maintained trail

The cross country route

The outlet of Cecile Lake



The view from the south of Cecile Lake

The south side of the outlet of Cecile Lake


Minaret Lake

the pack trail

The meadow of Minaret Creek







2019年2月21日木曜日

The river crossing along JMT

Ireland Creek in Lyell Canyon

Happy IsleからTuolumneまでは、Sunrise Creekがある程度で、通常は簡単に渡渉できる。ちょっと嫌なのは、Lyell CanyonのIreland Creekを渡る時だろう。幅は2-3メーターだが、流れが強い。写真のようにlog bridgeがある時もあるが、ないと思いきって水に入るしかない。

There is no difficult river crossing from Happy Isle to Tuolumne. Sunrise Creek is usually shallow and easy to cross. Ireland Creek in Lyell Canyon is a little difficult. The width is 2- 3 meters, but the stream is fast. There may be a kind of log bridge. When there is no log bridge, you must jump into the water. It is not comfortable.


Ireland Creek in Lyell Canyon


2011.07.31

Lyell Head Water

ライエル・フォーク最上流にはキャンプサイトがあり、渡渉箇所が続く。水量が少なければ、飛び石づたいに渡れるが、水量が多いと、靴を濡らしてしまう。写真の2009年は水量が少ない時、2011年は雪が残り、水量が多かった。渡渉の必要を感じなかったので、手前にテントを張って、翌朝を待った。

There is a campsite at the headwater of Lyell Fork and the river crossing adjacent to the site. When the water level is low, the river crossing is easily done by using the boulders. But when the water level is high, it is difficult to cross without getting wet. The 2009 photo indicates the low level of water and the 2011 photo indicates the high level of water since lots of snow remained. I pitched the tent near the crossing point.

アメリカ人ハイカーが果敢に川幅の広い所を渡渉したが、お腹か胸にまで水が来た。この川の川幅の広い部分は池のように深い。それで渡ってはいけない。翌朝は15センチほど水位が下がった。足を濡らすことなく、飛び石づたいに渡れた。ここでカメラをダメにしたという別のハイカーにも会った。

An American hiker challenged the crossing at the wide place of the river. But the water came at his stomach or chest. The wide part of the fork is deep as a lake. Therefore I do not recommend to cross the wide place. The water level lessened around 15 cm the next morning. Then I could cross the fork using boulders without wetting my boots. I met another hiker who broke his camera here.

地形図と2017年の写真をみれば渡渉を避けるルートは一目瞭然である。川の周りは歩けないほどの急斜面ではない。水位の高い場合は、写真の黄色の線のように歩くこと。そうすれば、足を濡らさずに済む。

The topological map and the 2018 photo suggested the safest route for avoiding river crossing clearly. The bank of the river is not steep. I recommend walking following the yellow line in the 2018 photo. Then you can cross the river without wet boots.




2009.08.01

2011.07.31

2017.08.17

Rush Creek

Rush Creekを渡ったのは何時も8月で、log bridgeが渡れないほど増水したのを見たことがない。2018年も確認を怠った。この地図の右にはMarie Lakesというきれいな湖があるが、行きそびれたままである。なお、Seldon Pass近くの湖はMarie Lakeと単数形である。

I always crossed Rush Creek in August, never seen the water too high to cross. I did not check the cross country route. There are beautiful lakes named Marie Lakes on the left side of this map. I did not hike yet. BTW, the beautiful lake near Seldon Pass is Marie Lake.

北からアプローチすると、HalfMileのマップでWA0927Bという湖が目印になる。この手前からクロスカントリーして高度を少し上げるとRush Creekの上流部に突き当たる。浅い所を選んで渡渉すると、Rush Creek Trailに合流する。下るとRush Creekのlog bridgeがある。このあたりで何度か休憩してランチを食べた記憶がある。

If you approach this area from the north,  you will find a small lake WA0297B by HalfMile's map. The cross country begins near here and you will go a little higher place. Then you will find the upper stream of Rush Creek. Cross the shallow place, then there is Rush Creek Trail. If you hike along this trail, there is a log bridge of Rush Creek. I had lunch here a few times. 





WA0927B


The log bridge of Rush Creek 2011.8.01



Silver Pass Creek/North Fork Mono Creek

Silver Passの南、Silver Pass Creekの渡渉は雪融け水の多い時は困難となる。2017年の6-7月は水量が多く、渡渉が困難であった。そこで、VVRに集結したPCTハイカーはSilver Pass Creekを完全に迂回し、Silver Passでなく、Goodale Passを越えて北上した。このコースは後述する。

The river crossing of Silver Pass Creek which located in the south of Silver Pass is difficult when the water level is high. It was extremely difficult in June and July of 2017.  The majority of PCT hikers gathered at VVR were headed to Goodale Pass avoiding Silver Pass Creek and Silver Pass. I will describe this route later.

Silver Pass CreekとNorth Fork Mono Creekの渡渉箇所で大きな場所は地図の3箇所である。この中では上流部の1が一番危険である。夏の水量の乏しい時の写真を2枚示す。トレイルは黄色の線のように滝の下を横切っている。2枚目はトレイルのすぐ上の滝の写真である。

There are three crossings along Silver Pass Creek and North Fork Mono Creek as indicated on the map. The upper stream No.1 is the most dangerous. I will show you two photos when the water level was low. 

この場所は増水時に渡渉が非常に危険である。迂回するにしても急勾配の崖をよじ登る必要があり、安全とは言えない。したがって、Silver Pass Creekの水量が多く危険という情報を得たら、コース変更してGoodale Passを目指すべきである。

The crossing point becomes very dangerous when the water level is high. If you want to avoid the crossing here, you must climb the steep terrain.  It is not safe. Therefore, when you get the information that the water level of Silver Pass Creek is high, you should head to Goodale Pass, not to Silver Pass. 




2017.08.12

2011.08.05

2018.08.08, dry year

Goodale Pass ( bypass the river crossing of Mono Creek )

Silver Passの代わりにGoodale Passを目指せば、Mono Creekの渡渉はない。2012年の夏はドライで、レイク・エディソンが干上がった。逆のケースである。そこで、Goodale Passを目指した。

When you head to Goodale Pass instead of Silver Pass, you can avoid the crossing of Mono Creek. Contrarily, the summer of 2012 was completely dry and Lake Edison was dried up. Then I headed to Goodale Pass.

ルートは明瞭で、分岐には標識があり、しばらく登るとLake of Lone Indianという湖がある。その先はPassを越えるまで、ドライで水はない。Passの南のUpper Graveyard Meadowからは小川沿いに緩やかに下って行く。小川はあるが、渡渉は簡単である。VVRが近づくと、やはり標識があり、それに従うだけである。

The trail is clear. there was a sign at the junction. After ascending for a while, there is a lake named Lone Indian. There is no water beyond the pass. The trail descends gently from the Pass along a brook. The crossing of it is very easy. There are signs of VVR near Lake Edison. You can easily get to VVR.





The junction of Goodale Pass

Lake of Lone Indian

The trail toward the Pass

The trail toward the Pass

Goodale Pass

Upper Graveyard Meadow

Lake Edison 2012.08.07

Hilgard Branch

JMTはBear Creek沿いに上流に向かうが、Lake Italy への分岐、Hilgard Branchに渡渉箇所がある。深くはないが、水量が多い場合は飛び石が水面下に隠れる。この近くにテントサイトもある。

JMT goes along the upstream of Bear Creek. There is a crossing point at Hilgard Branch, which is the junction of Lake Italy. It is usually shallow and can cross using boulders. But when the water level is high, the boulders lie under the water. There are several tent sites here.



2010.08.10

Bear Creek

Bear Creekの通常の渡渉点は馬向きで、人間には向いていない。非常に水量の少ない時(2012年8月)は飛び石を利用して渡れたが、一般的に深く、水量が多いので、危険である。

The usual crossing point of Bear Creek is for horses, not for humans. When the water level is very low ( the summer of 2012 ), I crossed here using boulders. But, it is usually deep, then it is dangerous.

回避ルートは二つある。一つはEast Fork Bear Creekを少し遡って、渡渉してJMTに復帰するルートである。ここは確認していないが、クロスカントリーは容易な場所である。

There are two routes avoiding the dangerous crossing. One way is to hike along the East Fork Bear Creek, then cross the creek, and do a little cross country to JMT. I did not check this crossing, but cross country is easy.

もう一つは、通常渡渉点の300meterほど下流である。ここは川が二つに分かれていて、水深も浅い。地形図を検討して、準備してから臨んだ。2017年にはたまたまlog bridgeがいくつかあったので、靴を濡らさずに渡れた。なお、このlog bridgeは2018年に失われた。

Another way is to cross the 300 meters downstream of the usual crossing point.  The creek is divided into two streams and shallow. I prepared the topological map in the 2017 summer beforehand. There were accidentally several log bridges at the small island. Therefore, I could cross without wetting my boots.  BTW, these log bridges were washed out in 2018. 








Bear Creek, the usual crossing point

Evolution Creek

Evolution Creekの渡渉は有名で、常に相当の水量がある。何時も通常の渡渉箇所を渡っていたが、2018年8月1日に確認のためもう一つのルートを歩いた。北向きJMTだったが、方向を逆転して説明する。

The fording of Evolution Creek is famous. Its water level is constantly high. I had always crossed the usual crossing point. But I had to check the alternative route. Therefore I walked here as NOBO JMT. I describe it reversely.

通常渡渉箇所は最初の写真の通り馬の道である。この場所の近くに迂回路の標識がある。2番目の写真は上流側から見たもう一つの渡渉箇所である。水流が弱く、浅く、砂地で渡りやすい。3番目の写真はもう一つの支流である。そしてJMTに合流する。ここにも代替ルートの標識がある。

The usual crossing point is a horse trail as indicated in the first photo. There is a sign of an alternative route. The second photo is the alternative crossing point taken from the upper creek. The water level is shallow, flows slowly, and its stream bed is sand. The fourth photo is another brook. There is another sign of an alternative route at the junction of JMT.

両方歩いてみて、こちらの方を何故JMTにしないのかと不思議に思った。そして、JMTは馬の道の転用で、馬の通行に支障がない限り、橋を架ける理由もなく、ルート変更も必要ないと納得した。この代替ルートでの渡渉を強く推薦する。(この代替ルートは公式にはもはや推薦されない。というのは2019年、二つの標識は取り除かれ、ルートは木の枝で塞いであった。

I walked both routes and doubted why this alternative route was not JMT.  I finally realized JMT is a horse trail. If horses can walk through, no need for a bridge and an alternative route. I strongly recommend this alternative route for humans.

(This alternative route was not officially recommended, because the signs were already removed and lots of tree branches were put on the route in 2019. )







This sign was removed.

South Fork Kings River

Mather Passの南、South Forkは常に水量が多く、渡渉しにくい。2017年は大雪で、7月に熱波が来て、大量の雪融け水が流れ下った。アメリカのFacebookグループでも回避ルートが議論され、私も日本のグループにuploadした。私は何故か、渡米した途端、このグループからブロックされた。また、Sonora Passのトレイルエンジェルからも拒否された。そこで、急遽、Sonora Passまでのハイクを中止した。

The water level of South Fork which is located in the south of Mather Pass is always high and difficult to cross. It was a high snow year in 2017, and heatwave came in July. The melted water swelled the river. There were lots of discussions concerning the river crossing. I frequently uploaded avoidance routes to the Japanese Facebook group. But, I was suddenly blocked by this group and refused to stop at the trail angel of Sonora Pass. Therefore, I changed my hiking plan to stop at Yosemite Valley.

この時、重大事件が起こっていた。私がホースシューメドウからハイクを始めたのは7月20日であった。ハイク途中で「日本人が死んだ」と聞いたが、詳細は不明だった。調べて見ると、まだ、モリタ・リカさんの記事 (既にリンクは削除された)がある。(追記、ロサンゼルス・タイムズには記事が残っている。)

At this time, the tragedy had happened. I started to hike from Horseshoe Meadow on July 20. I heard about the death of the Japanese from an American hiker. But the detail was unknown. I searched for her accident on the web site, I found the article. (The article was already removed, but the article of Los Angeles Times remains)

記事によると、彼女はRae Lake 付近で7月8日に目撃されたのが最後で、22日(土)に行方不明者の届けが出された。PCTハイカーが2017年7月23日(日)にサウスフォークで水没した状態で彼女の遺体を発見した。国立公園関係者がこれを確認し、およそ10000フィート付近の高度とある。ここは通常渡渉箇所に近い場所である。記事にも南向きハイカーはサウスフォークを2回渡渉するよりも、川の東に留まり、古いトレイルを辿ること、北向きハイカーはベンチレイクのスイッチバックを下りて川が渡れそうになければ東側を2.5mile歩くこととある。ただし、記事のように古いトレイルはない。クロスカントリーである。

According to this report, "she was last seen on about July 8 in the vicinity of Rae Lakes. She was reported as missing on Saturday, July 22. On Sunday, July 23, another group of PCT hikers discovered a body underwater in the South Fork of the Kings River at what the National Park Service described as “an alternative water crossing at about 10,000 feet elevation.” That afternoon, park personnel confirmed the location of the body. " The report described southbound hikers should remain at the east side of the river, and hike along the used trail, and northbound hikers should hike along the east side when the crossing was difficult. But no used trail exists as described.

このことを知ったのはかなり後である。私がRae Lakeを歩いたのは7月27日なので、彼女のおよそ20日後に歩いたことになる。

I noticed this tragedy afterward. It was July 27, when I hiked along Rae Lake. I was around 20 days behind her.

私の場合は渡渉の情報を得ていたし、それがない場所は事前に地形図を検討していた。South ForkのクロスカントリーはNOBO(北向き)として行ったが、方向を逆転して北から南へと記述する。写真は2017.07.28に撮影した。

In my case, I had lots of information on alternative routes. I had checked the topological map and made original routes beforehand. The photos were taken on July 28 of 2017.

Mather Passを下り、一時間ほどでSouth Fork上流(地図の上端)の渡渉箇所に行き着く。もし、ここが簡単に渡れないようであればSouth Fork下流(地図の下端)の渡渉はかなり難しくなる。そのような場合は、ここでクロスカントリーを決断する必要がある。2時間ほどかかるので、GPSの持参が望ましい。

When you hike southbound along JMT, you will reach the upper stream of South Fork (at the top of the map) in 1 hour from Mather Pass. If you find it is difficult to cross, you will be hard to cross the lower stream ( at the bottom of the map ). Then you must decide to do the cross country hike. It takes around 2 hours. I recommend carrying a GPS device.

最初の写真は、South Fork上流の渡渉箇所を下から撮したものである。写真左上の林が切れた場所が渡渉箇所である。クロスカントリーは、地形的に難しい場所はなく、容易に歩いて行ける。 二番目の写真はHalfMileのマップのWACS0813-5の近くである。 三番目の写真はVennacher Needleを0813地点近くから撮したものである。四番目の写真はTabooso Pass Trailの分岐近くである。この辺りからはトレースがある。最後の写真が下流側の渡渉箇所である。とても渡れる状態ではなかった。

The first photo is the crossing point of the upper stream of South Fork. It was taken from the south. It is easy to do a cross country. There is no difficult place to walk. The second photo is taken near WACS0813-5 on Halfmile's map. The third photo is Vennacher Needle, taken near 0813. The fourth photo is near the junction of Tabooso Pass Trail. There is a trace here. The last photo is the usual crossing point. It was impassable.

途中、倒木によるlog bridgeが多数あった。モリタ・リカさんはこの種のlog bridgeを利用して渡渉しようとしたが、途中で転落したと推測できる。上流側に落ちると水中の枝で下流に流れず、閉じ込められることになる。

There were lots of log bridges. I think Rika tried to cross the river using a log bridge and failed. When she failed in the upper stream side, she could not get out of the water.



The opposite bank near WA0814, The upper stream of South Fork. JMT is on this hill. If the water level is high( if you hike JMT Southbound), do not cross, hike down here.
The opposite bank near WACS0813-5. ( maybe near here)


A view from the alternative route of South Fork. It may be Vennacher Needle. Then this location may be at the opposite bank near 0813


The opposite bank near 0812. There was a trace here.

The usual crossing point, 2017.7.28


The creek near Arrowhead Lake

2017年は大増水の年であった。地図の赤い点線がクロスカントリー・ルートである。60Lakes Basinへのクロスカントリー・ルートは難度が高いので、熟練者のみのコースである。次の二枚は、2017年と2018年である。水位が30-40cm違うことが分かる。湖岸のクロスカントリーは容易で、私が渡渉した場所は三番目の写真である。浅く、水流が弱く、安全であった。もっと上流にいくと(写真の奥)、川の幅が狭いので、靴を濡らさずに渡れたかもしれない。最後の写真はトレイルに復帰した場所である。

It was a high-snow year in 2017. The red dots line on the topological map indicates the cross-country route, and the cross-country route to 60 Lakes Basin is only for the experienced hikers. The second and third photo was taken at the same place in 2017 and 2018. The difference in water level was 30-40 cm. The cross-country along the lake is easy. The third photo was my crossing point. The flow of water was slow, shallow, and safe. The upper stream may be a good place because it is very narrow and could be crossed without wetting boots. The last photo was the trail I returned.


Follow the red dots along Arrowhead Lake.  The 60 lakes basin is for the experienced hikers.

2017.07.27

2018.07.28

I crossed here

I returned to the trail

Tyndall Creek

Tyndall Creekも増水時は渡渉が困難になる。2017年は大増水で、地形図をあらかじめ検討し、回避ルートを作成して臨んだ。途中、会った日系人ハイカーが「タンドル」は危ないという。意味不明でしばらく話してやっとTyndall の事だと気づく。彼女はHillaryと名乗ったが、聞き覚えがあった。別れた後で、2010年にVVRで会ったHillaryと気づいた。

When the water level is high, it becomes difficult to cross Tyndall Creek. It was a high snow year in 2017. I checked the topological map and made the avoidance route beforehand. I met American hikers on the trail. One of the hikers was a nikkeijin (Japanese descent ). She said "Tandol is very dangerous. Don' ford". I realized Tandol means Tyndall after a few minutes. Her name as Hillary, which name I had heard before. I noticed she was Hillary I met at VVR in 2010 after having parted.

南向きJMTであれば、Tyndall の最上流を見た時に渡渉を決意しないといけない。北向きJMTであれば、通常渡渉点を難しいと感じれば、躊躇なく、川の東側に留まるべきである。

If you are a southbound hiker, you should decide to cross when you see the most upper stream. If you are a northbound hiker, you can decide when you see the water level at the usual crossing point. In case of difficulty to cross, you should stay along the east side of the river. 

最初の番目の写真は増水時の最上流部である。黄色の線のようにクロスカントリーするとよい。二番目の写真は私が渡渉した場所である。これは失敗で、もっと上流に行くべきであった。三番目の写真は2018年の水量の少ない年である。黄色の線が渡渉回避ルートである。クロスカントリーは簡単なので、無理にトレイルに留まってはいけない。

The first photo was the most upper stream in 2017 ( The water level was high ). You should do cross country as the dots line on the topological map. The second photo was the place I crossed in 2017. It was a failure. I should cross more upper place. The third photo was taken in 2018 ( The water level was low ). The yellow line is the recommended cross-country route. The cross-country is easy. You should not stay on the trail.



The dots line is the recommended route. 

2017.07.24 

2017.07.27 I crossed here

2018.07.25. 

Wright Creek

Wright Creekは幅が狭く、2017年でも渡渉が容易だったが、靴を濡らしたくなければ、赤の線のようにクロスカントリーすると良い。

Wright Creek is narrow. The crossing was easy in 2017. If you want to hike without wetting boots, the recommended cross country route is indicated as the dots line on the topological map.