2020年2月16日日曜日

John Muir Trail 2019 (1) Narita to Tuolumne

ヨセミテからの南行きpermitの抽選に当たる確率は非常に低く、一カ月以上外れ続き、Tahoe Rim Trailに行く準備を整えた。明日、飛行機の予約をするという日に千恵子が変なメールが来ているという。当選のメールだった。そこで急遽、行く準備を整えた。permitは8月15日と遅いが、雪が非常に多い年だったので、雪溶けが進んだ良い時期になる。


8/11
フライトは何時ものシンガポール航空。8/11成田発。成田からの機内食は良くなかった。昼にビュッフェで正解か。割によく寝たのでロスに着いた時にダメージが少なかった。ただし、イミグレーションのチェックが厳重になって、二時間あまりかかってしまった。ロス在住の大滝さんが来てくれたが、かなり待たせたようだ。フレズノ行きの飛行機は20時に変更になったため、夕食が必要なので、近くのIn & Out burgerに行った。きちんと作ったバーガーで美味しかった。



FresnoのPicadilly Innは空港から徒歩5分、あらかじめストリートビューで予習ずみ。

8/12
朝食はもちろんパンケーキ(Picadilly Inn)。十分カロリーオーバーなので昼食抜き。ビッグ5方面に向かって歩くが、遠い。1時間ほどかかった。ガスキャニスター、REPEL、エナジーバーを購入。帰りはバスを利用。明日のYARTSバスの乗り場を確認した。



5時過ぎに近くの中華のビュッフェに行くが、なんと休み。もう一度、ビッグ5近くの中華ビュッフェまで歩く。シニア割引で$16.7。割に良かった。塩辛くないし甘さも控え目。果物ではマンゴーが旨かった。帰りはバスと考えてバスを待つが来ない。終了していたようだ。宿までくらい中を歩く。



8/13
YARTバスでヨセミテに向かう。乗客は少し。バスの乗り心地はよい。ヨセミテに昼過ぎ到着。混んでいて、ブリトーを買うが美味しくない。失敗。夜のためにステーキ、ベーグルなどを買う。4時のバスでTuolumne。夕食はステーキ定食。



8/14
夜はよく寝た。時差調整はOK。立山で行った高度順応も良かったようだ。Wilderness OfficeへPermitを取りに行く。7回目というと、説明を簡単にしてすぐに出してくれた。暇だからSoda Springの方向へ向かい、ぐるりと回る。昼食はTuolumne Storeのハンバーガー。Storeに野菜や果物がなく、途方にくれたが、夕方もう一度行くと、たくさんあった。夕方に仕入れるようだ。




ステーキはないので、夕食はソーセージとなる。


いよいよ明日からJMTを始める。

写真はここ。

2020年1月13日月曜日

ジョン・ミューア・トレイル・ガイド 2020






2020年度からは「ウィルダネスでの連続的な移動(徒歩、馬)(continuous wilderness travel by foot or with stock)」が義務化され、ヒッチハイク、シャトル、車で町へ移動して補給や休養を取ると、パーミットが失効します。

これは、ハイシェラ全域に適用され、JMTハイカーとPCTハイカーの区別はありません。その関係で、ビショップやインデペンデンスでの補給はレギュレーション違反になります。そこで、この新しいレギュレーションに基づいて、記述の修正を行いました。


I did a small revision of y Kindle John Muir Trail Guide ( in Japanese) according to the recent new permit policy. If you had a previous version, contact the customer center, then he/she will send the new version to your kindle device. I think you can get a new version free of charge.

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ということでした。


2019年12月28日土曜日

SNOWBOUND( 雪に囚われて )

OutsideというWebにSNOWBOUNDという記事があり、引き込まれて読んでしまった。これは翻訳すべきだと感じた。やや難しい英語なので、ほとんどの日本人には難しいからだ。ベテラン・スルー・ハイカーが雪に閉じ込められたという話だが、いくつか教訓があるだろう。
1.SPOT(衛星通信装置)の費用(月数ドルだが)をけちって食料やマリファナに回した。
2.山に向かうタイミングが遅かった。大きな冬の嵐が来るという天気予報を無視した。
3.彼は紙の地図を持ってなかった。
4.装備がウルトラライトでぎりぎりだった。(足から凍傷になっている)
怖い話なので、元気な時にゆっくりと読んでください。
I have read the article "SNOWBOUND" in Outside Magazine. I feel I should translate this into Japanese because its English is a little difficult for most of the Japanese. It is a story that an experienced thru-hiker was confined in the snow. We should learn something from here.
1. He had SPOT but he stopped to use it. The subscription fee might be a few dollars, but he used this money for weed and food.
2. The timing of entering mountains is too late, and he hiked against the weather forecast that the big storm would come.
3. He has no paper map.
4. The equipment is too ultralight. ( the frostbite began at his feet )
This is a terrible story. Stay calm. Read slowly. Good Luck.
ダグ・ロビンソン S N O W B O U N D ( 雪に囚われて )
2015年11月、ベテランのスルー・ハイカー、スティーブン・オッター・オルシャンスキー(Stephen“Otter” Olshansky)はニューメキシコ州北部のContinental Divide Trailにいた。その時、冬の嵐が来て、数フィートの雪が積もった。彼は動けなくなり、食料がなくなり、キャンプ場のトイレをなんとか探し、中に閉じこもり、助けが来るのを祈った。
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はじけるような美しい2015年の秋、、スティーブン・オルシャンスキーは、コロラドの山岳地帯を南に向かってハイキングしていたので、冬の到来が恐ろしいことを知っていた。秋の嵐が来て、雪が降った。雪は彼を止めるほどではなかったが、彼の歩みは遅くなった。彼はコンチネンタルディバイド・トレイルの最高峰をほぼ通過していた。コロラド州南部のサンファン山脈で、「9,000フィート以上では脹ら脛から膝まで雪に潜っている」と彼はブログに書いた。
オルシャンスキーはベテランのスルー・ハイカーで、トレイル名はオッター(Otter, カワウソ)。彼は雪を知っていた。彼はしばしばサウスパウンダー(sobo)で、セクション・ハイカーではなく、雪が完全に溶ける前の春に長距離トレイルの北端から始めてスルー・ハイクを行っていた。「彼はマスターであり、エキスパートのトップでした」と、オッターのスルー・ハイキング・フレンドのアート・ローは言う。しかし、オッターが前年に経験したのは春の雪で、固くしまっていたので、その上を歩くことができた。
10月下旬までに、秋は急速に冬に向かっいた。しかしオッターは慌てなかった。彼は友人と一緒に一度に何日も休んだ。最初、州の南西の隅のマンコスという町で、彼はポテトチップスを喉に詰まるほど食べ、ダスティン・パートリッジ(トレイル名:ドーバーのプロ)と一緒にワールドシリーズを見た。その後、彼は80マイル東のパゴサス・プリングスに移動し、ナミエ・バシレ(トレイル名:LetItBe)一緒に過ごした。ナミエは、AT(2,190マイル)、PCT(2,650マイル)、CDT(3,100マイル)をスルー・ハイクしたトリプル・クラウナーであった。
オッターは再びCDTを歩く前に、私に電話した。私は彼と友達でした。私たちは2000年、シエラネバダの晩秋の深雪をナビゲートするのを手伝ったときに会った。それ以来、時折連絡を取り合っていた。オッターは電話で寒い天候を予想していると言い、チタン製のウッドストーブとテントを送ってくれないかと言った。ストーブの重さは1.6ポンドで、ストーブパイプを広げると平らになった。私はそれらを一緒に送った。彼は、ニューメキシコ州チャマで、トレイル・エンジェルのベンとジル・ウィッティングの雪に覆われた裏庭でキャンプしながら新しい冬の道具をテストした。彼は夜の間、ウィッティングの南のルートの地図を調べ、大きな冬の嵐が来るという天気予報を見ていた。 「私たちが話したことはほぼすべてです」とベン・ウィッティングは私に言った。
彼がこれから向かう土地は、ニューメキシコで、縁辺岩地帯であった。彼が数百マイルをハイキングする千年前に、赤い砂岩のプエブロの人たちは、遠く離れた崖の住居を繋いでいた。CDTのその部分は十分に高く、10,022フィートのクンブレス・パスから始まり、所々、11,000フィート以上の高さがある。この地域は一見平坦に見えるが、所々、木々が密生したり、何も生えていなかったり、突然、崖に落ち込む前に緩やかだったりする。しかし、オッターは、その地形を経験していたので、天候にかかわらず、歩きたかった。一度、ハイキングした後は、彼は必要な契約を多くかかえていたので、ゴルフのプロとして働いた。彼はベン・ウィッティングの地図の提供を断った。
11月14日、ウィッティングは車でオッターをクンブレス・パスまで送った。気温10度のよく晴れた日だった。彼はオッターに75マイル南のゴースト・ラ-ンチに着いたときに電話するように言った。オッターは、2週間分の大量の食料を担いでいた。グローサリー・ストアの食料で、フリーズドライ食品は無かった。オッターが雪に覆われた小道から消えると、ウィッティングの若い息子のウェルズは恥ずかしそうに手を振った。2週間後、ウィッティングはまだ電話を待っていた。
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スティーブン・オルシャンスキーは1956年に生まれ、ニューヨークのニューロシェルで育った。彼のアウトドアへの愛は彼の家の周りの森から始まった。彼の友人の家への道はその長い森だった。そこではオッター(カワウソ)やビーバーが繁殖していた。家族が数マイル離れたところに引っ越した時、彼はその小さな荒野から切り離された。「同じ町、同じ小学校、すべては同じ。ただ、森はなかった」と兄のニールは言う。その結果、オッターの何かが変化した。彼は内向的になり、森で見つけた慰めをさらに熱心に探し求めているようだった。
彼は7歳の時にニューハンプシャーのサマー・キャンプでハイキングを始めた。アパラチアン・トレイルはサマー・キャンプのすぐ傍だった。続く7年間、夏に、彼はそれをどんどん歩いて行った。(後に、彼がアリゾナに訪れた時、ネイティブアメリカンがオッターというトレイル・ネイムを付けたと友人は言う。)
オッターは頭が良かったが、高校ではすぐに退屈してしまった。 (彼は一度、ニューヨークに行って全国チェス選手権に出場し、彼の年齢グループで優勝した。彼の友人は彼がプレーしたことすら知らなかった。)彼はほとんど学校を捨てて、映画を見たり、ゴルフをした。しかし、彼はアメリカ最長のトレイルに引きつけられた。 彼は、20代前半にATの最初のスルー・ハイキングを行い、彼の人生は夏中ずっとハイキングし、その後、冬の間、フロリダでゴルフのプロとして働くことに落ち着いた。2001年、私がフロリダの彼を訪問した時、床の真ん中に立てたテントしかなかった。
オッターは、毎年、トレイルを次々と歩き、小さいながらも成長しつつあるスルー・ハイカーのコミュニティの最も優秀なメンバーの1人になった。私が初めてオッターに会ったのは、パシフィック・クレスト・トレイルの雪の中であった。彼は、2000年の初めてのサウスパウンダーだった。彼は春にカナダ国境を出発した。ハイキングポール(その時には革新的だった)とアイスアックスを持っていた。ノースカスケードは200マイルほど、固い雪で覆われていた。彼は、固い雪で時々スリップしてパニックになったが、歩く速度が落ちただけで、シェラネバダには10月に着いた。
初冬の嵐が来て雪が2フィート降ったので、彼はヨセミテ東部のマンモスに下りた。そこで、彼は私を呼び、ガイドを依頼した。私は何時もはスキーだがスノーシューとロープを持っていった。オットーはスキーができないし、林のなので練習もできなかった。13,15フィートのフォレスター・パスを超えて、PCTのもっとも高い、凍った所を200マイル以上歩いた。
オッターと私は友達になった。私は彼がハイキングのムービーを撮るのを手伝った。テレビがメジャーになる前のことだ。彼は数え切れないほどのトレイル映像を蓄積したが、興味を示したプロデューサーはいなかった。それでも、私たちが話したり、ハイキングしたり、マリファナを補給する、遠くのトレイルヘッドで、彼は何年もの間、その件を持ち出した。
2014年までに、ニューメキシコからモンタナまでロッキー山脈を繋ぐCDTは彼のお気に入りとなった。トレイルはわずか70%しか完成していないため、狩猟用トレイルと林道でいくつかのセクションをつなぐ必要があった。スルー・ハイキングのワイルド・ウェストだった。
オッターは2015年にCDTをハイキングする予定はなかった。その年の3月に、彼はカリフォルニアの海岸をバックパッキングし、オレゴン州から東に向かってアイダホ州に向かった。そこで、彼は州の端を取り巻く推奨トレイルのことを聞いた。彼は、州の南端を歩いてモンタナへ行くこと計画した。それは8月で、私の知る限りでは、ハイカーがメキシコに向かってCDTをスタートするにはもっとも遅かった。
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オッターが11月にカンブレス・パスを出発してカーソン国有林に向かうと、すぐさま、彼は自分が困っていることに気付いた。彼は「私はすぐにひどい衰弱に苦しみ始めた。立ち上がると、気が遠くなった」と、苦難の間ずっと続けていた日記に書いた。彼がウィッティングズに滞在している間にインフルエンザにかかった可能性がある。ベンはそれで3週間働けなかった。しかし、彼が回復した後でも、オッターにはきつかった。「雪は所々腰までの深さだった」と彼は書いた。「私は露出した地面を1つの場所を見つけ、テントを張った。雪が降り始め、火曜日[11月17日]にやんだ時、雪は1フィート以上になった」
トロイ・チェンバーズは、嵐が訪れたとき、カンブレス・アドベンチャー・ツアーの観光客を案内する冬のスノー・モービルの準備をしていた。そこは高速道路17の高い場所、オッターがテントを張った所から遠くなかった。「少なくとも2フィート半の雪があった」と、チェンバースはカウボーイの声で私に言った。「この会社がツアーを行ったのはこれが最も早い。」
オッターのルートは、チャンバーの通常のスノー・モービル・ツアーの範囲を超えていた。高原の地方だった。夏には、無数の小さな尾根に誘惑されるが、しかし、夏は過ぎ去って長い。雪はすでにトレイルを埋めていて、何マイルも歩こうとは思わない。
嵐はすぐに過ぎ去ったが、気温は急落した。最高気温は-7度以下で、雪を溶かしたり固めたりするのに必要なものにさえ近くにはなかった。「私は水曜日に戻ろうとしたが、12マイルのうち1マイルしか戻れなかった。そこでもう一度キャンプサイトにやっとのことで戻った」と彼は書いた。「私は病気で、雪に囚われて、SPOTがなかった」。SPOTは緊急通報装置のことである。
オッターは、電話を取り出し、ビデオで記録した。これは、電話機は、以前は地図を保存したり、ごくまれだが、サービスを提供したときに友人に電話をかけたりしていた。
(オッターの最初のビデオ録画)
このビデオ・クリップでは、彼は悪く見えず、彼の声は思慮深い。「私は大きな問題を抱えている」と彼は言う。「昨日、脱出しようとした」私が彼に送ったテントの端に、森の中に足跡が見える。オッターはダウン・ジャケット、フリース・プルオーバー、長い下着を持っていた。いくつかはむき出しで、すべてウルトラライトだった。スルーハイカーの経験に忠実で、寒い夜のためにマイナス30度対応の寝袋を持っていたが、速く動いている時だけ温かいという衣服だった。オッターは、カスタムメイドのリマー・ブーツではなく、ランニング・シューズを履いていた。リマー・ブーツは暖かいが重いので、コネチカット州の弟の地下室に置いてきた。「股間までの深い雪と高度のため...つま先も暖かく保てなかった」と彼はビデオで言っている。「私は本当にサイコロを振って負けた。...今すぐ、奇跡が必要だ」
6日目は11月19日だった。一番の問題はオッターのつま先が凍傷の第1段階にあったことだ。それは感謝祭に近く、一年で最も日差しが短かった。分水嶺に沿う山々は冬が深くなった。彼はテントに置き去りにされた。それから、「風が強くなり、大きな嵐が来た。まる一週間、吹雪いた。その間、私はスノー・シューを作ろうとし、雪に大きく「助けて」と書いた。そして、誰かが上空を飛ぶと期待した。私は必ず誰かが来ると思ったし、彼らがなぜ来なかったのか、本当に理解できなかった。がっかりした。スノー・モービルも飛行機もなし」
(オッターの2番目のビデオ録画)
オッターは、12月1日まで17日間そこに留まった(バックカントリーでは時間経過がすぐに分からなくなる。オッターの日誌は数日間抜けていた可能性がある)。1フィートずつ雪が積もっていった。チェンバーズはスノー・モービルのツアーで忙しかった。彼はオッターがテントを張った場所から8マイル北まで、誰も連れて行ったことはほとんどないと言った。数人のバックカントリー・スキーヤーがパスの近くでパウダーを滑ったが、冬にその地方の奥深くまで行く人はほとんどいない。
最初の2週間半で救助されなかったので、オッターは「私の人生で最大の決断」という選択に直面した。オプション1:じっとして救助を期待する。オプション2:東か西に向かう。彼の作ったスノーシューは、頑丈な枝に、貧弱な下着から引き裂いた布を打ち付けた物で、おそらく、分水嶺の有名な軽いパウダーでも長くは保たないだろう。オプション3:南の低い地方に行けばおそらく雪が少ないだろう。彼は、電話が死ぬ前に、地図で南へ3マイルの所にラグニタスというキャンプ場を見たことを思い出した。「そこにはトイレがあり、一度寝たことがある」と彼は書いた。
(オッターの最後のビデオ録画)
結局、トイレを避難所にするという見通しで、彼はテントをまとめて南に進んだ。
「あの日、勇気を精一杯出して荷造りした。...200ヤードを歩いたが、腰までの深い雪で、疲れ果てて身をかがめた。17日間過ごした場所を振り返った。...安全だが、棺桶だった...数歩歩いて、身をかがめ、丸一日かかった。私は一歩も先に進めず、雪の中で寝ようとしていた。左を見たところ、トイレを見つけた。...私は震えながら、氷箱の中に潜り込んだ。寝袋に入り、温かい物を飲もうとウッド・ストーブを組み立てた。」
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最初にオッターの居場所が分からないと書いたのはベン・ウィッティングだった。彼は、11月29日に、スルーハイカーのFacebookページのCDT 15にログオンした。「先週かそこら、オッターから何か連絡はなかったか?彼はここ(チャマ)を出発し、11月14日にゴースト・ラーンチに向かったんだが」
オッターの親友、ピーター・グロスも彼から何も聞いていなかった。それで、彼はコロラド州のダスティン・パートリッジに電話した。「どうも良くない」とグロスは言った。パートリッジは閃いた。「ああ、なんと言うことだ。オッターが行方不明だ」
オッターの友人のリン・ユーディクとアート・ローア(組み合わせたトレイル名:TwoBadDogs)も不安になった。彼らはパートリッジに会ったことはなかったが、CDT 15で彼と頻繁にやり取りしていたので、彼を知っていた。トレイル・コミュニティは緊密で、トップハイカーとの関係があった。ユーディクとローアはマンコスに向かった。彼らはグロスとパートリッジが電話を切ったわずか1時間後に到着した。彼らはオッターがSPOTを持っていることを知っていた。というのは、ローアがマップをロードするのを手伝ったからである。ただ、彼らは、オッターが数ヶ月前にそれを捨てて、その毎月のわずかなサービス料を食物とマリファナに当てていたとは知らなかった。
彼らは、オッターのようなベテランのハイカーの捜索と救助を電話で要請するのはためらったが、とにかくそうすることにした。彼らはアルバカーキのニューメキシコ州警察のSARの長であるボブ・ロジャースに連絡した。ロジャーズはオッターのことは何も聞いていなかった。彼らはほぼ1時間、電話で話しをした。(その後、ロジャーズはオッターの兄ニールからも電話を受けた。)
ロジャーズはすぐに州の警官に警告を発したので、警官が騒ぎ始めた。彼らはAT&Tでオッターの電話に信号(ping)を入れたが、 信号は戻って来なかった。翌朝早く、パトロール女性のジョリーン・ジョーンズはチャマに行き、チャマ・ビジター・センターの長と話しをした。彼女はオットーがベンとジル・ウィッティングの家にいたこと、車でベンをカンブレス・パスまで送ったこと、オッターの目的地がアビクィウのゴースト・ラーンチであることを知っていた。ジョーンズがそこに電話をかけると、職員は、オッターの補給物資が11月初旬に到着したが、中の食物が腐り始めたので、職員がそれを開けたと言った。ロジャースはゴースト・ラーンチに行き、再確認した。彼はウディックに電話し、空の箱を見ていると言った。「彼はアビクィウに到達していない」と彼は言った。
チャマでは、ジョーンズはオッターに最後に会ったウィッティングと話をした。彼は、オッターが、南向きのトレイルを外れ、そのあたりのスパゲッティ状に混乱したトレイルをの1つを辿ったのではないかと彼女に話した。オッターの個人的なFacebookページと、その季節のCDTハイカーのページの両方が、アップデートで賑わい始めた。私も、彼がトレイルの代わりに未舗装の道路をハイキングする計画であると、カリフォルニアから知らせた。
「私はスノー・シューを作ろうとし、雪に大きく「助けて」と書いた。そして、誰かが上空を飛ぶと期待した。私は必ず誰かが来ると思ったし、彼らがなぜ来なかったのか、本当に理解できなかった。」
ボブ・ロジャースは、12月10日の空中捜索を発表しました。民間航空パトロールからセスナ3機が、チャマとゴースト・ラーンチの間のカーソン国有林の300平方マイルを飛行した時、風速は時速40マイルで、気温は氷点下であった。ラグニタス・キャンプ場は検索エリアの北端であったが、ウィルダネスのさまざまな地形があり、そこにぽつんといる人を上空から見つけることはほとんど不可能であった。風がパウダー・スノーをかき回し、何かが動いているという錯覚を作り出し、太陽が雪の表面をなめらかにする。飛行機の乗組員によると、見つける確率は25-30%だという。おそらく楽観的な数値であった。実際、こういう条件下で最北端を飛行した飛行機は、オッターの上空を通過したことに気づかなかった。
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12月10日までに、オッターは27日間動けなかった。彼はスキーで脱出しようと決心したが、彼は子供の頃に雪を平にならしていた時以来、スキーをしていなかった。「私は救助をあきらめた」と彼は書いた。「スキーを作って雪の上に立とう。曇っている所までスキーで脱出しようと決心した。」
オッターは小屋の屋根の金属板からスキーを作った。たぶん、その屋根はキャンパーが馬を入れる場所だったのだろう。オッターは合図のために屋根を燃やした。彼は2本の長い金属板をスキーに作りかえ、横木の針金からビンディグを作った。彼はその目的を日記に詳しく書いていないが、東に向かったのだろう。林道87号のラグニタスからその方向に向かうと、高原が終わり、地形は下って行く。27マイル離れた道路は、交通量の多いハイウェイ285に向かっている。ただ、オッターがそれを知っていたかどうかは分からない。ただ、スキーの初心者には丘や窪みはかなり難しい。「転倒した。カミソリのように鋭い金属製のスキーにすべて絡まって、本当に怪我をしたかもしれない。深い雪の中で立ち上がるのに数分もかかった」
しかし、救出のチャンスはあった。「私がキャンプ場の入り口にいた時、救助用の飛行機が私の上に飛んでいた。私は開けた場所にいた。彼らはキャンプ場の上空を飛んだ。雪が積もっていなかったので、嵐の後、私が燃やした建物を見たかもしれない。数分後、彼らは戻ってきた!彼らに激しく手を振った。私は開けた場所にいたので、彼らは私をちゃんと見たはずだ。私が救出される唯一のチャンスは、彼らが私を見たことだ」
その間、オッターは彼の計画に固執した。条件は厳しかった。初冬の雪は乾燥して軽かった。オッターはシューズで手製のビンディングを細かくコントロールできるようにした。「数マイル進んだが、雪の中に倒れ、雪の中でキャンプをした。一晩中眠れなかった。...その夜、スキーで戻るという決心をした。そうしないなら、そこで死んでいただろう。」
オッターはキャンプ場のトイレに戻ったた。これはセメントブロックでできた6×6フィートの構造物で、隅に便器があった。彼が燃やす前のシェルターは、スキー用の金属だけでなく、数十ポンドの馬の餌が蓄えられていた。トイレのセメントの床に麦を置き、石で割るとオートミールが調達できた。それで彼はもとの場所に留まり、食事をして、飛行機に望みを託した。「私の本能は、彼らが私を見ていないと言う。...彼らが現れなければ私は死ぬ。雪と風が吹き込まなかった日があった。昨夜は雪だった。晴天を期待して・・・救助してくれ...これが最も苦しい日だった。すべてはこれだった」
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オッターは知らなかったが、偽の目撃情報があったので、だれも、ニューメキシコ北部に注意をむけなくなった。目撃情報は12月10日にもたらされた。それは、グランツのラグニタスのキャンプ場の南西約200マイルを飛行機で捜索したのと同じ日だった。オッターの妹ミランダは、行方不明者のチラシの作成を手伝っていた。素晴らしい巻きひげで笑顔のオッターの写真は、チャマからメキシコ国境までトレイル沿いの町のFacebookに挙がっていた。写真が掲載されてすぐに、誤った目撃情報があった。バックパックを担いだひげを生やした男がグランツの森林局に歩いていった。彼は郵便局とモーテルへの道順を尋ね、11月にハイキングを始めたと言った。フロントにいるレンジャーはこのハイカーの名前を尋ねなかったが、彼はチラシを見て、それがオッターだと確信した。
ロジャースは大急ぎでモーテルに行き、あごひげを生やした男を見たという2人の従業員と話をした。しかし、彼の行き先は誰も知らなかった。グラントのトレイル・エンジェルであるキャロル・マムは、オッターのFacebookページを見た。「ああ、地元の救助隊から、あなたは大丈夫で、私たちの地域にいると聞きました。喜んで何でも手助けしますので、電話してください」その時点まで、オッターのケースは捜索と救助に分類されていた。それは、その人が所在不明で、差し迫った危険にあると思われる場合の分類である。しかし、すぐに、それは行方不明者のケースとして誤って再分類された。つまり、その人は生きていて、所在が分からないという場合の分類である。
ボブ・ロジャースはすでにラグニタスの南に捜索の焦点を移していた。オッターは通常、雪が降っていない状態で1日15マイルをハイキングしたと語ったが、ロジャーズは、最初の嵐の時、オッターが高地を越えていたと考えた。距離を計算して、彼はラグニタスの南17.7マイルにあるホープウェル・レイク・キャンプ場を調べた。何も分からなかったので、ロジャーズは、オッターがCDTの南にあるゴーストラーンチをスキップし、誰にも電話せずにグランツへのハイキングを続けたと考えた。
こういう条件下で最北端を飛行した飛行機は、オッターの上空を通過したことに気づかなかった。
オッターのウィルダネスに精通した友人たちは納得していなかった。「この周辺での捜索と救助が成功したというのは少なくとも非公式だ」とウィッティングは私に言った。ウィッティングは、カンブレス・パスでオッターを降ろした時に雪を見たので、それで、彼がひどく遅くしか歩けないのを知っていた。テレサ・マルティネスはトレイルの保存と促進に専念する非営利団体であるCDT連合の長であった。彼女は、ウィッティング、ナミエ・バシレ、地元の森林官のメアリー・スチューバーとプライベート・チャットを行った。マルティネスは、トレイルの友人、オッターの家族、およびSARの間の極めて重要な連絡先になった。「救助隊との電話を切ったところです。...地元のトレイル・コミュニティに電話をかけた方がよいかもしれない。その地域に向かう人を誰か知らないか」と、彼女は12月9日にグループに書きこんだ。
翌日、ウィッティングは、地形を考慮すると、スノー・モービルで捜索するのが最良の方法だと思うと答えた。「彼は87号線でラグニタス・キャンプ場に向かい、そこからホープウェル湖に向かうことを計画していた。雪があまり深くなければ、彼は嵐の前にキャンプ場まで行けただろう。誰かスノー・モービル・ツアーに参加したいかな、それとも一台を借りようか?」
しかし、誰もトロイ・チェンバースには手を伸ばさなかった。そこは、この地域で唯一のスノー・モービル用品店で、スノー・モービル・ガイドの会社だった。「残念だ」と今、彼は言う。「私たちはラグニタスのキャンプ場の近くにいたからだ。スノー・モービルではたっぷり半日以上かかる。」
グランツで誤った目撃が報告された後、注意はバックカントリーから遠ざかった。ウィルダネスを捜索することと、町でビラを配布することとの違いは非常に大きい。真っ白なウィルダネスの無言の謎を見つめるのを止めて、変わった方法で、道端を捜索するのは、気晴らしや慰めにはなる。しかし、ローア、ユーディク、および、オッターの他のハイキング・フレンドは、グランツの目撃情報が理解できなかった。ローアはコーテツからグランツまで3時間半運転し、最初にひげのハイカーを見たと報告したレンジャーと話した。少し話しただけで、それが絶対にオッターではない気づいた」と彼は言った。「レンジャーの表現は曖昧だった。つまり、オッターの群れだった。」
オッターの友人は、彼が以前にハイキングでグランツを通ったことを知っていた。それで、彼は郵便局の場所を知っていただけでなく、モーテルではなくトレイル・エンジェルの所に泊まったと思った。「それがオッターなら、彼は倒れてきた木で頭を打って、自分が誰だか、分からなくなったのだろう」とユーディクは言う。
しかし、彼と親しくない人々は、別の結論に近づいていた。CDTの連合のマルチネスはリン・ユーデックにメールを送った。「私はUSFSと話す最初の人でした」と、マルティネスは森林局のレンジャーのことを書いた。レンジャーは、オッターの服とパックを持った男がいると説明した。ロジャースは12月14日にユーディクに「グランツで目撃された男がオッターだとすると、さらに行方不明者の捜索を続ける理由が見いだせない、法執行機関に自分の行動を引き継ぐこともできない」とメールを出した。彼のケースは再分類されていたが、オッターの友人はグランツのセキュリティ・カメラの映像を切望して待った。しかし、12月16日、それが記録されていたハードディスクが損傷していたことが分かった。行方不明者の事件を調査している州の警察官は、彼の報告書に「対象者が危険にさらされていることを示す特定の情報はない」というメモを入れた。彼が出発してから1ヶ月が経ち、彼らは希望を失い始めた。
クリスマス・パートリッジと2人のハイカーがカンブレス・パスに車で行った直後、「そこに着いた。トレイルか道路を数百ヤード歩いた。地面には5フィートの雪が積もっていた。彼がそこに生きている可能性があるとは感じなかった」と彼らは言った。
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オッターは彼が見捨てられたと、はっきりと知ることはできなかった、捜索の気配がまったくないので、日が経つにつれて、彼はますます心配になった。「今、とても気分が悪い。...無力だ。…もうチャンスはない。」彼は自殺しようと思った。生涯にわたって、オッターは「自分のハイキングをしよう」と言っていた。これは他の人の考えに巻き込まれないための警告であった。今、彼は死ぬ準備を始めた。彼は淡々と書いた。「後で、ストーブを中に入れて、窒息しようと思った。おそらく上手くいかない。他は試していない。他の方法よりはるかに優れているので、完璧に落ち着いた。私は最後の日を楽しみ、残りの食べ物を食べ、暖かく過ごし、私の人生の美しいもの、良いこと、特に友人のことを考えるつもりだ。」
彼は日記にそれらをリストし、それぞれに別れを告げた。彼はピーター・グロスから始めた。「あなたは最高の親友だった」その後、彼は幼少期の友人について、それぞれ書いた。ほとんどの友人はフロリダに移住したが、繋がりが密接だったので、ハイキングの合間にフロリダに行った。その後、PGAツアーのゴルファーである彼の友人であるチャス・ボリングは、毎年オッターをコーチ兼キャディーとして雇った。「私はとても楽しかった。ありがとう。すべて感謝している。---ごめん、もうキャディはできない」
オッターは私にもメッセージを残した。「何が言えるかな? めちゃくちゃだ。君は何年間も私に優しかった」その後、彼はトレイルの友達のことを書いた「君たちみんなに。人生の残りをできるだけ楽しんで欲しい」
さよならを言って、オッターはストーブに火をつけて、トイレの酸素をすべて燃やしてしまい、窒息しようとした。上手くいかなかった。トイレは密閉されておらずく、強風のため、空気が安定して流れていた。
「12月17日。澄んでいるが、極寒。私はまだここにいて戦っている。体熱で水を溶かそうとする。...実際、気分はひどく悪く無い。オーツを一度に一つ食べて、一日中寝袋に入っていないといけない。少しも無駄にしたくない。残りは約20ポンド(9 kg) くらいだ。どれくらい続くか分からない。」
一度に数インチずつ雪が降り続け、トイレを埋めていった。嵐の間、突き刺すように寒く、気温は氷点下だった。オッターは寝袋に留まった。寝袋から出ると、もう一度温めるのに時間がかかりすぎた。彼は食べ物を夢見ていた。「一日中ピザを考えていた」と彼は書いた。彼が持っていたすべては、減っていくオート麦だった。彼は、自分が1日3回食事をする時、最高の気分になった。「こういう条件で人間はどれくらい生きられるのか?」彼は疑問に思った。「私はかつて水なしで3から5日、食物なしで1か月聞いたことがある。しかし、1日3食のオーツの場合はどうなのか?」
オッターは1ヶ月以上キャンプ場にいて、6週間行方不明だった。彼は、燃えがらのブロックのトイレ内に釘付けされた日々を過ごした。彼はセメントの床に斜めに寝た。贅沢なものと言えば、鋼鉄のドアで、吹雪が荒れ狂った時、薄っぺらなテントを守ってくれたことだ。
「月に1、2日しか晴れない。今は6週間以上経過した。物事を長引かせるという仕事をした」と彼は書いた。「水とオートミールに加えて、最大の問題はつま先だ。...まず、絶対に冷やさないようにしている。温めるのに何時間がかかるし、痛みを伴うからだ。」
「清算したい。願っている。...救助隊が来て欲しい。...最も苦しい日だ。すべてここに落ち着く。」
オッターが長生きする唯一のチャンスは、食物と水を得ることだった。彼はトイレのすぐ向こうの2つの湖の氷の下の魚と淡水に目を向けた。「私は木をとっておき、燃やして氷に穴を開けようとした。ラインにフックを取り付ければ...魚ではないかも、咬まないかも。しかし、上手くいけば、すべてが変わる。」
オットーは、タンパク質を入手できればスキーでカンブレス・パスに戻れるかもしれないと考えた。しかし、彼は衰弱していてもう木を集めることもできず、2つの湖のどちらかをうろついて、雪を取り除き、燃やして穴を作ろうとした。
1月にはもっと多くの嵐が来た。「まだ最大の嵐。雪が1フィート以上積もり、戸口と同じくらいの高さまで積もった。彼は一日中日記を書き、陽気になったり、落胆したりした。「私の人生は終わった!」と彼は書いた。「状況は変えられない。とても悲しい」
彼はケリを付けるために別のことを試みた。彼はのこぎりを握り、左手首の皮膚を切った。静脈から血が吹き出した。オッターは、傷が固まる前に1リットルの血を失ったと思った。その夜中、彼はずっと震えいた。翌朝、彼は釣り糸で手首を縫った。
オッターの日記の日時が信じられるなら、彼の絶望は数週間続いた。彼の説明では2月までは食料が保つ。「数日間、水を維持しようとするが、私にはできないことを知っている」と彼は書いた。雪は彼を取り囲んでいたが、彼は衰弱して立ち上がれなかったので、雪を集められなかった。それで、彼はそこに横たわり、ほとんど動かなかった。雪は彼の周りに積もり続けた。
最後の数日、おそらく数時間で、彼は自分の人生を日記にまとめた。
「私は決してどこにも溶け込めない!4歳からでないが、今までだ。ハイキング・コミュニティ以外はどこにもない」
「5年生の時のいじめはひどく、人生に傷を残した。...言葉にできないほど押しつぶされた。...とても不幸だったので、私たちは森から離れた。...私は逃げ出してヒッチハイクした。私は別の世界を発見し、それが人生を永遠に変えた。16歳で初めてマリファナをやったが、最高だった。初めて現実の痛みを免れた。西のPCTにハイキングに行った!初めてセックスした。」「私は脱水症状で死にそうで、水がない。とても激しく、とても悲しい...。私は無力で、衰弱している。...袋の中に横たわっているだけで50日になった...失われた日々。一日中、食べ物の夢。ああ、後悔はあるか。」
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2016年4月7日、イアン“ ダートウォルフ(DirtWolf)” クロムビーは、CDTでメキシコ国境から北に向かった。ニューメキシコ砂漠は暑くて乾燥していた。「景色のほかに、今日のハイライトは所々のトレイル・エンジェルの水だった」と彼は回想する。ほとんどのCDT志望者と同様に、クロムビーはベテランのハイカーで、すでにPCTを完了していた。出発してからほぼ1か月後、クロムビーは標高わずか2,000フィートで雪に遭遇した。ラグニタスの南30マイルだった。彼は泥道をとぼとぼと歩いた。「濡れた足のケアは止めた」と彼は言う。オッターがチャマを離れてから6か月後の5月10日、クロムビーは夜明け前に目を覚まし、固まった雪の上をラグニタス・キャンプ場に行った。
トイレの入り口は、雪解けで残った乾燥したほこりと散らばった松葉で覆われていた。自家製のスキーの正面は釣り合っていなかった。クロムビーは、ハイカーがそれらを前年に作ったかのか、疑問に思った。「それからドアが見えた」と彼は言う。塗装面に「警告」という言葉が刻まれていた。色あせた紙のメモがドアに貼り付けられていた。
トイレのなかに閉じ込められた死体がある。
それは
スティーブン・オルシャンスキー、別名
オッターだ。
当局に連絡してほしい
すぐにだ
本当だ
サンキュー
クロムビーは、北上する途上、すべてのトレイル・タウンで、オッターの顔を印刷したチラシを見ていた。彼はトイレのドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。彼はニュースを届けるために北に向かって急いだ。「私は、最初、これは誰かに伝える必要があると本能的に感じた。オッターだ。」雪の中を歩き続けた。数日後、彼はチャマに着き、州の警察に連絡した。
彼らには厳しい任務があった。春は山には人がいない。スノー・モービルは裏庭に放置されている。小川は溢れていて釣りはできない。倒れた木は深く斜めになり、漂っている。「フォークナー将校はパトロール隊とその場所に行こうとしたが、道路が大きな雪で塞がれているため、キャンプ場に到達できなかった」と警察のレポートにある。フォークナーは援軍を求め、たくさんの部隊が、犯罪捜査官と森林局のレンジャーと一緒に、全地形用車両を集めた。それでも雪が非常に深く、ツボ足で、ラグニタスに行く必要があった。そして、やっとトイレのドアをこじ開けることができた。
内部では、オッターの死体はひどく腐敗していた。5月15日の午後、彼はようやく林道87号を下った。そこは彼がスキーで高速道路285号に行こうとした場所だ。彼の遺体はエスパノラの遺体安置所に運ばれ、火葬された。
その月の後半、オッターのトレイルの友人たちはニューメキシコに集まり、彼の要求に応じてお祝いをした。6月2日、彼の家族と古い友人たちは、ATがマサチューセッツ州のグレイロック山に至る東の場所に集まり、ビーバーズのために静かな記念式を開催した。ビーバーズの多くは彼を知っていた。彼が要求したように、私は彼らに加わった。彼の「最後の意志」は、彼の日記にラベルを付けたように、トイレの手すりに結び付けられていた。州警察はそれをオッターの兄弟ニールに渡し、彼はそれを書き起こして、私に送った。
私はそれを読んで、SARの専門家、彼の家族、彼のトレイルの友人、そしてフロリダで古い仲間たちと話をして、答えを探して2年以上費やした。オッターの死を非難するのは易しい。私には、彼が姿を消す2日前の彼からの電話の1つが気にかかっていた。オッターはこれまで以上にマリファナを吸っていた。「ハイになっちまって、チャマのマリファナなど、とにかく続けた」と彼は日記に書いた。
私が話したSARの専門家の1人は、飛行機はウィルダネスでの捜索には効果がなく、最初の捜索はほとんどすぐに偽の目撃によって取り消されたと言った。リン・ユーディクとアート・ローアから激しい抗議があったが、ボブ・ロジャースは町での確認された目撃例がなくてもウィルダネスの捜索を中断した。そして、ロジャースが森林局にラグニタスの近くで地上の捜索を行えるか尋ねたが、最終的に天候のためにそれが不可能になった。
ベン・ウィッティングは、森林局が捜索を試みたなら彼を見つけることができたと考える。ラグニタスのキャンプ場があった地域に隣接する国有林地区には、スノー・モービルを備えたレンジャーがいたが、彼らは捜索担当者ではなかった。「彼らは悪い奴だ!」と、チャマで彼を訪ねたとき、ウィッティングは言った。そういう行政的区分を越えて、すばやく捜索できたかもしれない。
トロイ・チャンバーズは最も近い所に住んでいて、地形に詳しかった。彼は誰かに請われれば数時間以内にオッターを見つけられただろう。しかし、チャンバースは、ボブ・ロジャースの管轄外にあるコロラド州の州境にいた。
私は彼はもう死んでいると思ったので、あまりに早く友人を諦めてしまった。オッターが高い山のピークを避けると言っていた。それで、私は雪について考えたことはなかった。代わりに、私は彼がほこりだらけの岩盤の端を歩いて、ボロボロの砂岩が崩れ落ちるのを想像した。ナミエ・バシレはまた、彼が滑って落ちたと思った。他の人は雪崩だと思った。リン・ユーディクは、これら様々な要因が致命的な結果になることを恐れていた。
もっとできたと思うのは簡単だ。おそらく何かできるのは私だけだった。ダスティン・パートリッジはスキーがそれほど上手ではなかった。ベン・ウィッティングにはインフルエンザにかかっていた。東方のオッターの家族と友人は、ウィルダネスを歩く方法を知らなかった。
こういう話はすべて何ヶ月も後のことだ。それより私は、オッターが彼の生涯の終わりに、死やピザのことを乗り越えて、言葉を残していることを好む。1月のある穏やかな朝、彼は借りた部屋のドアに寄りかかって開け、寝袋を外に半分ほど滑らせて、日光を頬に当てて、暖かくして寝ていた。私は、彼が最初にアパラチアン・トレイルを若々しく歩いた時から、彼がどれだけの旅をしていたかを想像する。彼の魅力は彼を理解することだ。ピザが保証されず、死が近い日でも、我々のどんな部屋も借り物で、アウトドアへの踏み出すことは永遠への道に繋がる。
オッターは、彼の側では、執着心が著しく欠けていた。「人生はハイキングだ」と彼はブロの終わりに何時も書いていた。彼のハイキングは終わった。彼の日記は、生涯に渡ってウィルダネスで自立の習慣に支えられていて、彼の行動と怠慢は、ほとんどオッター自身の責任である。「これは、私の人生の、自分の行為の結果だ」と彼は書いた。彼は他人を非難したりしないし、彼らがもっとなすべきだったと望んでいない。代わりに、日誌の最後で、彼は単に記憶していて欲しいと書いた。彼は、友人に、自分が死んだ時のことではなく、生きていた時のことを思い出して欲しいと書いた。
「これは、スティーブン・ビーバーズ、
善良な人間、善良な魂、良き友人のための
ものです。彼が今ここにいればいいのにと思う。」


OUTSIDEONLINE.COM
Pinned down and running out of food, Stephen "Otter" Olshansky scraped his way to a campground latrine, holed up inside, and prayed for a miracle.

伊豆縦走 Izu hiking 2019.12.22-27、寝場所と水場情報

伊豆縦走路に、きちんとしたキャンプ場はないので、LNT(証拠隠滅型)キャンプを行うこと。トイレは猫式トイレとし、携帯お尻洗浄器を用いて、なるべくトイレットペーパーを使わないこと。水は動物の糞便やゴミが混じっているので必ず浄水器を使用のこと。なお、箒山から万二郎岳へはトレイルではなく、残置テープしかないし、急勾配なので、山の初心者は歩いてはいけない。


12/22 (日)
新幹線で伊豆に向かう。午後に雨の予報なので、一本早めに出かけた。伊豆大川着 12:13. 12:30出発、曇り。展望台13:10、700m付近の道端、テント設営、15:30。雨が降り、風が出てきた。見晴らしの良い場所は諦めた。そのうち、烈風になった。地面には砂利が多く、ステイクが十分効かず、二本打ち直し、二本は寝ている間に緩んだ。気温が相当に下がり、テント内4度。

寝場所と水場 








寝場所は赤三角形。ここは標高700mほど。道端だが、死後1~2ヵ月の鹿が道の真ん中に転がっていた。交通量ゼロの林道。小川が北100mほどの場所にある。

12/23(月)
雨は6時頃止む。猛烈な風雨でテントがぐしょ濡れになった。重い。8:10出発、箒山林道が整備され、きれいになっていた。頂上近くは雪。

箒山山頂からの万二郎岳


万二郎岳へはトレイルがなく、テープのみ。したがって、ここを初めて歩く人はGPS持参が望ましい。湿った新雪で急勾配で時間を取られる。万二郎岳13:30。10cmばかりの積雪。マップケースが千切れて無くなったのに気づいた。とても引き返せないし、地図は頭に入っているし、GPSもあるし、で先に進む。

                                            万三郎岳、気温は0度

万三郎岳への途中で高齢者夫婦に会い、写真を撮って貰う。奧さんに「日本の方でないでしょう。...だって生足だし」と言われた。ゴルフ場の4時のバスに乗るという。たぶん、無理だったと思う。ぐずぐずの雪で歩きにくい。

小岳まで雪が深くなったが、コースタイム程度。それで、戸塚峠まで行くことにした。雪があるので、どこでもテント泊可能。17時、戸塚峠、テントを張り、雪を集めて水を作る。Primetechの高能率ストーブなので、非常に早くできた。



戸塚峠、水がないので、通常はここではキャンプできない。


12/24

風がコンスタントに吹いていたが、強くなく、お陰でテントが乾いた。テント内1.5度。身体が慣れたのか、あまり寒く感じなかった。

寝場所と水場


白田峠にテントを張り、水を汲みに行くのがよい。水は水色のサークルの場所にある。割に枯れない。運が良ければ白田峠から少し下るとわき水がある(枯れやすい)。



白田峠手前300mほどの水場、割に枯れない。


8時過ぎに出発、白田峠9時、八丁池、10時半、ここは5-6年前にキャンプ禁止になった。看板だけが2回新品になったが、東屋は壊されたまま。地図の特別保護区のみがキャンプ禁止なので、すなわち、湖から400mほど離れればキャンプ可能。

八丁池



12時、日当たりの良い場所でランチ、トレイルがメインテナンスされていて、歩きやすくなっていた。二本松峠15:30着、水汲み往復で、テント設営は16:00。水場はいくつかあるが、二本松峠手前500mの川が確実。

二本松峠

寝場所と水場

比較的確実な水場、二本松峠手前500mほど



12/25
8:20 出発、10:00みかさ山、ここからトレイルは地図と異なり、尾根を下って巻いていく。12時、猫越岳手前でランチ。


猫越岳頂上下の池、この近くでもテント泊可能。


テント泊予定の風早峠に行く。道路の傍で良くない。北に400m歩くと、道から離れて、しかも小川がある場所があり、すかさずテント設営。15時。ただ、ドコモの電波は届かない。inReachでメール発信。よく寝て、よく食べた。

風早峠の北

水場


12/26
5時に起き、7時出発、もう一泊分の食料はあるが、戸田峠まで歩けるので、最終日とする。奥様に宿と帰りのバスの変更をお願いした。時間はあるので、トレイルを歩く。今日の午後は崩れる予定だが、富士山がきれいに見えた。魂(こん)の山でも同じだった。


達磨山で小雨になった。幸い、大した雨でなく、下ると止んだ。そのままトレイルを北上。15:20分、戸田峠着。ところが、バスが17:21しかない。困って、とりあえず、達磨山レストハウスまで歩く。休みに入っていて、人も車もいない。少しヒッチハイクを試みるが、止まる車なし。仕事なのか、ビュンビュンと走りくだる車ばかり。仕方ないので、17時23分のバスまで待った。乗り継ぎは順調で、沼津駅19時着。安宿の三交インに辿り着いた。

寝場所と水場


地図の一番下、県道に出ると、残土処理の跡か、意味不明の駐車場があり、テント泊可能、低い場所から水が湧いている。この他、少し急勾配の崖を下りると水がある。また、土肥峠から林道を少し下ると水がある。北上しつつ、少し谷を見ると、所々に水がある。船橋峠の休憩所の近くには雨水の排水路があり、たまり水がある。そこで、この辺りのトレイルの近くでテント泊が可能である。


土肥展望台駐車場へ500mくらい。側溝に小川が流れ込んでいる。枯れたのを見たことがない。展望台の隅にテントも張れる。この次は戸田峠から300mくらい南の県道沿いに小川があり、利用可能。戸田峠の駐車場でテント泊も可能。



詳しい写真はここ。

2019年11月22日金曜日

John Muir Trail Guide ジョン・ミューア・トレイル・ガイド




ジョン・ミューア・トレイル(John Muir Trail: JMT)は、カリフォルニア州のシェラネバダ山脈にあり、ヨセミテ・ヴァレイからマウント・ウィットニーまで続くトレイルで、総延長は339km(211mile)である。アメリカのナンバー・ワン・トレイルであると評価され、世界中のハイカーの聖地といえる。

アメリカの国立公園をキャンプしながら歩くには、パーミットという許可証が不可欠である。ところが、ハイキングの方法やパーミットの取り方を詳しく紹介した書籍としては筆者の「米国ハイキング大全」(エイ出版、2018年)くらいしかない。

ただ、写真は小さく印刷され、ほとんどモノクロで、渡渉回避ルートやサイドトリップ・ルートのイラストは、十分詳しく表現できなかった。書籍の関係でその後の変化も反映されていない。ジョン・ミューア・トレイルのイメージを正しく把握するには不十分な結果であった。

本書は上記書籍のジョン・ミューア・トレイル部分を取り出し、多くのカラー写真と入れ替え、追加記述したものである。地名の由来も所々に挿入しておいた。アメリカの歴史が垣間見れるだろう。電子書籍という関係で、カラー写真の枚数、ページ数の制約がなくなった。ぜひ、タブレットで読んで欲しい。

また、ジョン・ミューア・トレイル全域を含む5万分の1地形図(CalTop)を収録した。さらに、渡渉回避ルートとサイドトリップ・ルートは1万2千分の1などの地形図(CalTop)として別枠で収録した。これは筆者がCalTopの制作者の許可を得て、ルートなどを書き加えたものである。

自己出版です。AmazonのKindle版のみです。11月23日(土曜日)から5日間だけ、無料で入手できます。スマホかタブレットにKindleアプリを入れれば読めます。A4プリントで200枚ほどの分量だよ。

リンクはここ



2019年11月7日木曜日

奥秩父から奥多摩縦走 2019.10.29-11.5

2015年に一度行ったが、天候悪化と転倒でトレッキングポールを折り、雲取山から鴨沢に下山して終了。今回は奥多摩駅まで行くつもりで、秋晴れが続く日を待った。また、距離を欲張らず、早めにテントを張ることにした。時間がないので、記録を簡単にまとめる。





写真はここ
https://photos.app.goo.gl/WBsQsDnEXVzpmo3bA

10/29 秋晴れが続く見込みで、小雨の中、信濃川上に向かう。ところが、列車のアナウンスで小梅から行かない、代行運転という。小梅で下りるが2時間待ち、タクシーに料金を聞くと、信濃川上まで8000円くらいという。お金に自信がないので、即、思いとどまった。その運ちゃん、代行運転の運転手でもあり、一時間すれば大型タクシーが来るから、乗ればよい、俺が運転手だよと教えてくれる。乗り込んだのは学生一人と自分一人のみ。川上駅に着くが、もちろん、バスを一時間待たないといけない。本当は駅で寝て、もう一泊増やすべきだった。川端下は17:30ヘッドランプをだし、しばらく歩くが、霧で先があまり見えない。キャンプ場まで歩く気になれず、水を見つけたので、道端の空き地にテント設営、まあビバーク泊。


10/30 非常によく寝て、5時起き、6時発。アプローチが長い。廻り目平キャンプ場、割によい雰囲気だった。林道はずっと奥まで続き、テント泊好適地が一杯、登山口に着いたのは9:40。登山道をGPSでチェックすると、尾根一つ分、道が西にずれている。この辺り、古い道が地図に掲載され、訂正されていないようだ。金峰山小屋近くから地図通りの道になる。金峰山13:50着。遅くなったしまった。14:10下山開始、14:50左脚痙攣、ちょっと休憩すると治まった。5時過ぎると林の中は暗い。ヘッドランプを出す。大弛峠、5:40分着。テントを張ってからお金を払いに行くと、小屋の主がやたら機嫌が悪い。登山届け出していないというと、やたら起こりだす。こちらはそれなりに連絡しながら登っているし、現在位置もinReachで通信しながら行動しているのに、頭ごなし。次回からは川の水を道端で寝ることにした。800円寄付したのにばかばかしい。なお、テント泊はもう一名のみ


10/31 甲武信ヶ岳までは長いし、倒木も多い。4時に起きて、6時発。前国師7時、国師ヶ岳で写真を撮して貰う。縦走路は以前より少し荒れて、倒木多め。10時2224mのピーク、甲武信ヶ岳のキャンプサイト16時着、代金1000円と水200円と、やたら値段が高い。


11/1 5時起き、6時半出発。リチウムイオン電池の出力端子が壊れたので、スマホの充電ができない。節約モードとする。ヘッドランプもリチウムなので、太陽電池パネルと直結、このヘッドランプ電源低下すると、突然、暗くなる。ライトの予備がないと非常に危険。破風山9:30、雁坂峠12:20ランチとしてのんびり。男女二人。写真を撮って貰う。水晶山13:50、雁峠(がんとうげ)16:00、水を6L汲んで、浄水用意。バックパックを担いで大汗をかいて通る人。大弛から来たという。すごい。トイレと水のない場所では寝たくないと、彼は先に行く。それでたった一人のテント泊となった。普通の人は水道とトイレが整備された場所でないとテントは張れないらしい。


11/2 5時起き、6:40出発、10時、唐松尾山。途中の岩場3箇所ほどが急勾配。山の神土でランチ、15:30、飛龍の水場に無理矢理テント設営。斜めでぼこぼこなので、下に食料などの袋を敷いてダウンマットで安眠。4時過ぎに一人通りかかる。ちょっとやばい時間帯。三条の湯までは2時間はかかるかなと教える。心細そうだった。


11/3 11時間は寝て、5時に起きて、7時出発、北天のタルを過ぎると、道が細くなり、熊笹で覆われている。だんだん道の状態が悪くなる。昔からの倒木があり、急傾斜面を回り込むのが大変。熊の踏み跡と消えかけのトレイルが何度も交差。ウンコも二つ見つけた。11時半、三条ダルミ。ゆっくりとランチ。雲取山荘キャンプ場、2時。続々とキャンパーが来て満員。後で聞くと、祭日だった。一番高い位置にテント。


11/4 5時半起き、7:30出発。夜に小雨、雲が多く、富士山は見えない。雲取山から少し下りた時に少しだけ見えた。つまらないので、7つ岩山を除き、すべて巻き道。12時半、鷹ノ巣山避難小屋。コーヒーを湧かし、エナジーバー一本でランチ。お腹減っていないので。誰もいないので14時テント設営。そのうちにテントは2名来た。誰一人、避難小屋では寝ない。


11/5 5時起きて、7時40分出発。天気は完全回復。鷹ノ巣山から何枚も写真を撮す。結構、満足した。そのまま、わりとすんなりと下山。奥多摩は12時半。コンビニでラーメンとお菓子を買って、自分で温めてラーメン作成、のんびりしていたが、立川までの列車が13時57分に気づいて、慌てて整理して駆けつける。立川駅15時、立川アーバンアネックスホテル別館にチェックイン。ミニキッチンがあって、なかなか面白い宿。次回からここを定宿に決定。

1.リチウムイオンバッテリの出力端子破損で、携帯電話の充電ができなかった。対策を練る必要がある。--->ケーブルの抜き差しは原則として行わないようにする。

2.リチウムイオンバッテリのヘッドランプを持っていったが、電池容量がなくなると、途端に真っ暗になる。非常にやばい。常に満充電にするか、乾電池式に戻すか、しばらく使ってから考える。

3.急傾斜面を無理に脚を踏ん張って右脚の膝周りの炎症が酷くなった。しばらくランニングできない。一応、安全第一で歩いたけど。

2019年8月7日水曜日

Long Slow Distance

ジョー・ヘンダーソン「LSD -人に優しいトレーニング」


日本語訳が無料公開された。読んだのでメモをしておく。LSDは長距離をゆっくりと走ることだが、著者は「単なるトレーニング法」ではなく、「スポーツというものの本質をどうとらえるかという問題なのだ」という。ランニングの世界ではスピード信奉が過大評価されている。「スピード・トレーニングが危険を伴うのに比べて、スタミナ重視のトレーニングは安全だし、心地よい方法」である。

「フルマラソンを1マイル5分4秒ペースで走りきったアンビー・バーフットは、普段の練習ではこれよりも1マイル2分遅いペースで走っていた」し、最高のウルトラランナーだったアーサー・ニュートンも「可能な限り頻繁に練習」し、「疲労困憊するまで走ってはならない」と著書に書いていた。スウェーデンで生み出されたファルトレック(トレイルランニングに該当)もニュートン式のゆっくりで単純な方法への回帰である。「ランニングを短期的で投機的な賭けとしてみるのではなく、長期的な視点でみることによって、ランニングは楽しく精神的な満足をもたらすものになる。」この辺りが著者の主張の中心だろう。次にLSDを実践したランナーたちのエピソード集が続く。

アンビー・バーフット(1968年ボストン・マラソン覇者) 山の中にこもって悪路を走り回っていた。彼が人の前に姿を現すのは大学の講義を受ける時と体育館のシャワーを浴びる時だけ。福岡のマラソンでは2時間14分18秒8の記録も出している。この時の練習ペースは1マイル7分と遅い。週に120~150マイルを走っていた。

ボブ・ディンズ(1969年ボストンマラソン6位) 高校生の時の初マラソンは3時間21分。大学に入り、ゆっくり走の影響を受け、練習は1マイル7分半から8分ほどで一日2時間、週末には3~4時間走った、マラソン記録は2時間25分に達した。一度、レースに出ると、次のレースでは記録が短縮される。

トム・オスラー(1965年25km, 1967年30km、米国国内選手権1位) 長めのインターバルトレーニングで故障した。それ以来の練習は一週間に70~80マイル、1マイル6分半から7分半のペース、これを「基礎トレーニング」と呼ぶ。レースの6週間前には「研ぎ澄まし」と呼び、スピード走を少し入れる。

エド・ウィンロウ(1966年25km, 30km、米国国内選手権1位)  大学でLDSのコーチングを広めた。彼の練習は1マイル7分~8分のペースで、一週間に60~70マイルだけ。それでも9マイル(15km)を1マイル5分(キロ3.1分)で走った。

ジェフ・ルート(20km 1時間11分、30km 1時間50分28秒、マラソン2時間50分36秒) 練習は1マイル7分~8分ペースで週80~112km。体重過多で長い距離は走れなかった。LSDに変えて足の故障がなくなり、減量できた。

ジョー・ヘンダーソン(ご本人、20km 1時間12分12秒、30km 1時間55分00秒、マラソン2時間49分48秒) 記録が低迷し、高望みは止めた。「苦痛のない練習でランニングの楽しさ」を取り戻し、「マラソンを走りきる耐久力を養う」ことを目標とした。「2年半のLSDトレーニングをした後では、2時間04分」と進歩した。

最後はLSDの進め方。先入観を捨てて、まずゆっくりと走ってみること。楽しくやる方がよい。LSDでトレーニングするとスピードが失われるという意見があるが、1、2度レースに出ると、スピードは戻る。LSDは走りながら普通に会話ができるペースが良い。そして継続的にトレーニングすると、ステップアップしていく。

論文というよりエッセイだが、趣旨はだいたい上記の通り。ただ、LSDでは怪我が少ないとか、トレーニング効果が大きいなどは、逸話的証拠に留まっていて、科学的な話ではない。PubMedにLong Slow DistanceとかLow-intensity trainingというキーワードを入れて、Comparative study(比較研究)にチェックマークを入れて、少しだけ調べて見た。

review article
Hydren & Cohen 2015 Current Scientific Evidence for a Polarized Cardiovascular Endurance Training Model.
 伝統的な閾値モデル(高強度・練習量大のトレーニング)は実際のレースでの効果は少なく、オーバー・トレーニングの結果、怪我をしたり、心理的に燃え尽きてしまいがちである。分極化モデルでは、「低強度」(≤13)と高強度(>=17)の二極化のトレーニングを行い、「中強度」(14-16)やレースペース(6-20)でのトレーニングはわずかな時間とする。7つの研究によると、伝統的な閾値モデル(14-16,6-20, ~55%Vo2max)と比較して、分極化トレーニングでは有酸素運動能力が増加し、効果量も大きい。分極化モデルの効果量は0.85~2.80と非常に大きいが、閾値モデルでは-0.42~2.16と効果量が大きい人もいるが、マイナスの人もいる。

review article
Laursen 2010 Training for intense exercise performance: high-intensity or high-volume training? 分極化トレーニングモデルの方がよいというreview

experimental article
Helgerud, et al. 2007 Aerobic high-intensity intervals improve VO2max more than moderate training. Vo2maxを高めるには高強度のインターバル・トレーニングがよい。
Gibala & Jones 2012 Physiological and performance adaptations to high-intensity interval training   週に一度強いトレーニングをすると、Vo2maxなどが向上する。

科学的検討の結果は「分極化トレーニング」が良さそうである。日本のランナーの人は知っているのだろうか。ちょっと心配だな。